◆原告第18準備書面
第1 はじめに

平成27年12月24日福井地裁異議審決定の問題点  目次

第1 はじめに

福井地方裁判所民事第2部(裁判長裁判官林潤、裁判官山口敦士、裁判官中村修輔)は、平成27年12月24日、福井地方裁判所平成26年(ヨ)第31号大飯原発3、4号機及び高浜原発3、4号機運転差止仮処分命令申立事件について、同裁判所が平成27年4月14日にした仮処分決定を取り消し、住民側の仮処分の申立てをいずれも却下した(以下、この仮処分決定取消、仮処分申立却下決定を「福井地裁異議審決定」という。)。
しかしながら、同決定は、福島原発事故により変容を求められる原発訴訟に対する司法審査の枠組みを従来の行政追随型に後退せしめるものであり、到底許容できるものではない。
本準備書面では、同決定の判断枠組みの不合理性を明らかにし、本訴訟における有るべき司法審査の枠組みを再度提示するが、まず、最初に根本的な疑問点を述べ、次いで各論点について述べるものとする。

 福井地裁異議審決定は、福島原発事故に正面から向き合わず、いまもなお続き、終わることのない破滅的な状況を忘却したか、あるいは無視している。

 (1) 福井地裁異議審決定は、福島原発事故について触れてはいるが、福島原発事故によって、広大な土地が人の住めない無人の荒野と化し、また住み慣れた故郷の地からの避難を余儀なくされている膨大な人々の苦難の事実を、わがことの如くに見ていない。避難を余儀なくされた人々の苦難の実情は、本法廷において意見陳述をした福島敦子原告ら福島県から避難をした人達の、切実な訴えによって明らかである。膨大な人々が苦難を強いられていることを、原告の一人でもある宮本憲一名誉教授は、本法廷において、足尾銅山鉱毒事件によって消滅させられた谷中村の悲劇以来の悲劇と指摘している。いうまでもなく、福島原発事故は、世界の原子力発電所の歴史において、チェルノブイリに並ぶ最大級の事故である。未曾有の公害事件であり、途方もない人権侵害事件であることを片時も忘れるべきではない。
この裁判に関わる全ての関係者は、この福島の地の現実、いま進行している膨大な人々に加えられている人権侵害の現実を直視し、二度と再び原発事故を起こさせてはならないという戒めを胸にして出発しなければならない。
しかし、福井地裁異議審決定は、福島原発事故によってもたらされている現実に、正面から向きあっていない。最近の新聞記者とのインタビューにおいて、女川原発裁判を担当した塚原朋一元裁判官は、「福島第一原発の事故を目の当たりにして初めて、裁判官の多くは変わったと思います。」と述べている。同氏は、福井地裁異議審決定は「福島原発事故にも言及してはいるのですが … 原発事故再来への懸念が実感として伝わってこない。」(朝日新聞2016年3月3日)とも指摘している。福島原発事故による途方もない人権侵害の現実から目を背け、原発事故再来への懸念を実感していないのではないか。福井地裁異議審決定は、再び原発の「安全神話」にすがりつき、司法の役割を放棄しようとしているのではないか。これが、この決定を前にしての第一印象なのである。

 (2) 生涯をかけて原発問題に取り組んだ市民科学者、故高木仁三郎は、かつて、要旨「科学技術とは、本来実証的なデータに裏付けられたものであるはずだが、原発の技術に実証性を期待することは難しい。実証的に裏付けられない点は、大型コンピュータを用いたモデル計算によってカバーすることになるが、計算はあくまで計算に過ぎず、現実との対応関係は実験ができない以上、確かめようがない。」(高木仁三郎セレクション所収「核エネルギーの解放と制御」98頁、1990年著)と述べ、技術文明の危うさ、原子力技術が本質的に持つ危険性に警鐘を鳴らし続け、原子力時代の末期症状による大事故の危険と、放射性廃棄物がたれ流しになっていくことを危惧しつつ、2000年にガンで倒れた。高木の指摘は、福島原発事故で、誰の目にも明らかとなった。

 (3) 水素爆発は起きないと断言した直後に、それが起きた時、原子力安全委員長は、アチャーと言ったとマスコミは報道している。そのレベルの人物が、原子力安全の最高責任者であった。福島原発で水素爆発が起きている最中に、ある専門家は、テレビでそれを否定した。最近の報道では、東京電力は、炉心溶融が生じているにも拘わらず、そうではなく炉心損傷に過ぎないと2ヶ月も言い張り、しかも炉心溶融か炉心損傷かの判定基準の存在に5年間も気付いていなかったと言う。これらが、原子力に関する専門家の実情である。高木が述べるように、原子力技術の危うさと、それに従事する関係者の実情に照らすと、原発の危険性の判断において専門家の行っていることを鵜呑みにしてはならない。これが福島原発事故から導き出される苦い教訓なのである。

 (4) それだけではない。九州電力は、川内原発の再稼動許可を得るに際し、免震重要棟を建設するとしたが、再稼動を開始した後でその建設を撤回し、重大事故時の拠点施設を耐震構造する方針を打ち出した。原子力規制委員会は、九州電力の方針転換を批判するが、九州電力はその批判を歯牙にもかけない(朝日新聞2016年3月10日)。また、福井地裁異議審決定によって関西電力は高浜原発4号機の再稼動を開始したが、その直前に原子炉補助建屋で放射性物質を含む水漏れがあり、さらに発送電を始めた初日に変圧機から送電線の間で、一時的に規定値を超す電流が流れた為に原子炉が緊急停止する事故が発生した。この緊急停止をうけて、原子力規制委員会委員長は、社会の信頼回復を裏切るような結果で遺憾だと述べたとのことである(朝日新聞2016年2月21日、3月1日、同月3日)。しかし、原発事故によって被害を受ける者にとっては、遺憾では済まない。原子力規制委員会での約束事を公然と覆し、再稼動を始めた直後から原子炉の緊急停止を生じさせる電力会社の実情を見せられるにつけても、多くの市民の、電力会社と原子力規制委員会に対する不信と不安は益々増大せざるを得ない。原子力規制委員会の安全規制は本当に機能しているのであろうか。原子力規制委員会の審査結果を鵜呑みにすることは危険なのではないか。司法は、原子力規制委員会の審査に対して、専門家任せでなく、司法自身の判断を行っていくべきである。再稼動を認められた原発で生じた上記の事象は、原子力規制委員会の審査の在り方に反省を迫るものであり、また司法審査の在り方を考える上で重要な示唆を与えるものといわねばならない。

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 福井地裁異議審決定は、科学と裁判における謙虚さを欠いているのではないか。

 (1) 原子力規制委員会の規制基準の策定の在り方については、石橋克彦名誉教授は、次のように述べている「きわめて重要なのは、ある特定の原発サイトで想定すべき最強の地震動はどのようなものかといった問題は、現在の地震科学では客観的に解答できないということである。この種の問題は、A.Weinbergが提唱した『トランス・サイエンス』(科学によって問うことはできるが、科学によって答えることのできない問題群からなる領域:例えば、小林、2007)の典型例である。専門家は、幅のある予測と可能性の程度などを提示して(よく確率的にしか答えられないといわれるが、意味のある確立を付与すること自体が困難な場合が多い)、最終的には利害関係者や関心のある人々や社会全体が科学以外の基準(例えば、予防原則)によってきめるべきであろう。日本の現状では、専門家が“科学的に”一意的に決定できるという感覚が根強いが、それに荷担せずに、その感覚を正していく努力が必要であろう。」(「日本の原子力発電と地球科学」所収「地震列島・日本の原子力発電所と地震科学」2015年)。本件の原告団の団長である竹本修三名誉教授は、固体地球物理学、測地学の専門家であり、地震予知の研究にも長年携わってきた地震科学に造詣の深い研究者であるが、本法廷の意見陳述において、科学としての地震学の有する限界を強調している。

 (2) このような科学の限界性の自覚、認識は、真理を語る前では謙虚であれ、ということを含意すると思われるが、裁判官にとっても謙虚さが求められることを、さきに指摘した塚原元裁判官も述べている。同裁判官は、自らが関与した女川原発事件判決の中で、それまでの最高裁判決が示していた、「原子力委員会などの調査審議や判断の過程で「看過し難い過誤、欠落」があった場合、これに基づいてなされた原子炉設置許可処分は違法とする、という基準は、取消を求める住民側にとってあまりにもハードルが高すぎると考えて、「原子炉施設に求められる安全性とは、その潜在的危険性を顕在化させないよう、放射性物質の放出を可及的に少なくし、これによる事故発生の危険性、平常運転時の被曝線量をいかなる場合においても、社会観念上無視し得る程度に小さい場合には、原子炉施設の運転による生命・身体に対する侵害のおそれがあるとはいえないものとして、人格権又は環境権の違法な侵害に基づく差止請求を認めることはできないと解すべきである。」とした。同元裁判官は、上記の新聞記者とのインタビューにおいて、「この『社会観念上無視できる程度』という表現は、伊方最高裁判決を踏襲するのではなく、住民側に課されていた高いハードルを低くするための自分なりの工夫であった」「ところが、それに近い表現が、私の意図と異なる形で最近現れました。関西電力高浜原発3、4号機に対する運転差し止めの仮処分を取り消した昨年末の福井地裁決定です。ここでは『核燃料の損傷・溶融に結び付く危険性が社会通念上無視し得る程度にまで管理されているか否かという観点からみても、(中略)人格権が侵害される具体的危険があると推認することはできない』と述べています。結論をこうと決めたら、それを導くための法理の工夫をあまりしなかったのではないかという印象を受けました。ある意味割り切った決定ですね。福島原発事故にも言及してはいるのですが、『社会通念上無視し得る程度にまで管理』という理由づけが乱発され、原発事故再来への懸念が実感として伝わってこない。」そして、同元裁判官は、「福島第一原発事故が日本全体に与えた甚大な影響を考えると、裁判官は従来の想定に縛られない謙虚な姿勢で、個々の事件に臨まねばならないと思わずにいられません。」としている(前記新聞記事)。
女川原発が辛うじて津波の直撃を免れたという実感を基に、同元裁判官はこのように述べているのである。同元裁判官は、福井地裁異議審の担当裁判官には、その実感がないのではないか、もっと真実を見、真実の前では謙虚にならねばならないと切言している。それは、本件に関係する全ての者の課題ではなかろうか。

 福島原発の行方

2015年ノーベル文学賞は、ウクライナ生まれのスベトラーナ・アレクシエービッチに与えられた。同女史の「チェルノブイリの祈り」というドキュメンタリー作品において、1996年4月刊行の、次のような雑誌の記事を載せている(「チェルノブイリの祈り」岩波現代文庫 292頁、2011年発行)。
「『石棺』と呼ばれる4号炉の鉛と鉄筋コンクリートの内部には、20トンほどの核燃料が残ったままになっている。今日そこでなにが起きているのか、だれも知らない。」(中略)「石棺の組み立ては「遠隔操作」で行われ、パネルの接合にはロボットとヘリコプターが用いられたので、隙間ができてしまった。 今日、いくつかのデータによれば隙間と亀裂の総面積は200平方メートル以上になり、そこから放射性アエロゾルが噴出し続けている。」「石棺は崩壊するのだろうか?この問いにだれも答えることができない。いまだにほとんどの接合部分や建物に近づくことができず、あとどれくらいもつのか知ることができない。しかし、石棺が崩壊すれば1986年以上に恐ろしい結果になることは誰の目にも明らかである。」
これは、福島原発の未来像であるかもしれない。福島原発事故の中で何が起きているのか、それが今後どのように収束されていくのか、誰もわからない。福島原発事故の原因の特定すらできていない。にもかかわらず、新規制基準を策定し、それによって原発再稼動が始まっている。新しい規制基準は、原発事故の原因に真に有効に対応することができているのだろうか。原因のわからない問題に真に有効に対応することができるのだろうか。原因のわからない問題に、どのようにして有効で適切な回答を与えることができるのであろうか。我々は再び原発事故を起こしてはならない、という出発点に立ち戻って本件に向き合いたい。福井地裁異議審決定は、我々にそのことを促している。

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