◆原告第30準備書面
第1 木津川市地域防災計画の作成
第2 原告宇野朗子の避難体験について

原告第30準備書面
―木津川市避難計画の問題点について―  目次

原告第6準備書面において、避難困難性について述べたが、本準備書面では木津川市における避難計画の問題点についての主張を行う。

第1 木津川市地域防災計画の作成

木津川市防災会議は、平成26年4月、木津川市地域防災計画を作成した。その後、木津川市防災会議は、平成27年7月及び平成28年7月に一部修正を行っているが、同計画は、平成26年木津川市地域防災計画の作成から約3年が経過しているにもかかわらず、問題点が全く改善されていない(甲339号証)。

第2 原告宇野朗子の避難体験について

2011年3月11日、原告宇野は、福島市内の友人の家の庭で被災した。暴れ馬のように力強く揺れ続ける地面にしがみつきながら、原告宇野は、「大丈夫だよ、ママはここにいるよ」と隣にいる娘に繰り返し言った。原告宇野は、そう言いながら、心では「ああ、大変なことになってしまったかもしれない。間に合わなかったのかもしれない」という想いがこみあげるのを抑えることができなかった。

原告宇野は、本震が終わると、すぐに友人宅に逃げ込んだ。原告宇野は、「原発は、大丈夫だろうか――?」と思い、急いでテレビをつけた。テレビでは、津波の警報が出ていた。予測高さは3メートルくらいだったが、それもみるみるうちに、5メートル、7メートルと上方修正されていった。原告宇野は、「これは本当に大きな地震だったのだ。大変なことになった。原発は無事にはすまないかもしれない。」と思った。しかし、テレビでは、原発についての情報は、「自動停止した。今のところ問題はない」ということ以外は、何も得られなかった。原告宇野は、友人にパソコンを借りて、全国各地で原発の問題に関心をもつ市民が集まるメーリングリストに、「皆様無事でしたか?原発が心配です、何か情報があったら教えてください」と投稿した。ほどなくして、静岡の友人から返信があった。「福島原発全電源喪失。電源車が向かっている。メルトダウンの危険性があるから近くの人は避難も考えたほうがよい」というものだった。大変なことになった!電源車、どうか間に合って!と祈りながら、原告宇野は、原発により近くに住む友人たちに電話をかけ続けた。その間にも、次々と大きな余震が襲い、外は雷鳴が轟き、雹が降るなどしていた。日が暮れたが、電源が復旧したという知らせはなく、原発がどのような状況なのかについての情報を手に入れることはできなかった。「今いるこの場所は、原発からどのくらいの距離なのか?」「原発からの風向・風速は?」「もし原発から放射性物質が拡散し、運悪く風向きも悪かった場合、どのくらいの時間でここに到達するのだろうか?」原告宇野は、これらの情報を知りたいと思ったが、どう調べて良いかすらわからなかった。夜になり、原子力緊急事態宣言が発令され、3キロ圏内に、避難指示がでた。

原告宇野は、避難を決断した後、当面必要になりそうな、オムツや衣類、食料、水、カッパ、ガムテープ等々を、友人の車に積みこみ、まさに着の身着のままで避難を開始した。山の中は吹雪で、視界は悪く、道の端がどこかもおぼつかず、非常に危険であった。

3月12日の午後には、原告宇野は、埼玉で被災し避難所で一夜を過ごした原告宇野の配偶者と合流し、新潟空港に向かった。ちょうど、伊丹空港行きの飛行機にキャンセルがでたとのことで、原告宇野は、その飛行機に飛び乗った。伊丹に到着後、原告宇野は、新大阪で遅い夕食をとり、新幹線で広島まで行った。3月12日は、広島駅近くのホテルに宿泊し、再度新幹線に乗って南下、13日午後、山口県宇部市にある原告宇野の配偶者の実家に到着した。

この原告宇野の体験からも明らかなとおり、原発事故の際に、正確な情報が伝えられず、また、避難についても、原発事故の状況に応じて、対応する必要があり、現実的な避難計画など定めることはできないのである。

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