◆第14回口頭弁論 意見陳述要旨

第14回口頭弁論 意見陳述要旨
意見陳述2017 年2 月13 日

氏名 宇野朗子

宇野朗子と申します。

福島市で被災し避難、山口県、福岡県を経て、現在は京都府木津川市におります。

2011年3月11日、私と、当時4歳の娘は、福島市内の友人の家の庭で地震にあいました。私はとっさに娘を自転車から降ろしふたりで、暴れ馬のような大地にしがみつきました。ゴォーッという地鳴り、周囲の全てのものが強く揺すぶられて、聞いたことのない音を発していました。すぐ後ろに停まっていたワゴン車がバウンドして前に進み、石塀がガランゴロンと崩れました。「大丈夫だよ!ママはここにいるよ!」と繰り返し叫びながら、私の意識は浜通りの原発へ飛んでいました。「ああ、間に合わなかったのかもしれない」という想いがこみ上げていました。その頃、私は、福島第一原発3号機でのプルサーマル運転に反対しており、すべての原発を安全に廃炉にしていこうというイベントを準備している最中だったからです。

本震が終わるとすぐに友人宅に逃げ込みました。急いでテレビをつけると、日本列島の海岸線が点滅して津波警報が出ていました。予測高さは3メートルくらいでしたが、みるみるうちに、5メートル、7メートルと高くなっていきました。そして、本当に、津波がおしよせ、家も人も車も押し流されていく映像が流れました。「これは本当に大きな地震だったのだ」と思いました。でもテレビでは、原発について、「自動停止した。今のところ問題はない」という情報以外は、何も得られませんでした。

すぐにパソコンを借りてネットにつなぎ、情報を求めました。ほどなくして、信頼する友人から、「福島原発、全電源喪失」の報せを受けました。前年の夏の、外部電源全喪失事故の記憶が蘇りました。あの時、冷却水の水位が2メートル下がったところで電源が復旧し、メルトダウンを免れていました。「今回も、どうか復旧しますように、電源車が間に合うように」と祈りながら、私は危機を知らせるため、友人たちに電話を掛け続けました。

夜になっても、電源復旧の報せはありませんでした。

原発からの風向・風速は? 放射性物質が拡散したら、どのくらいの時間でここに到達する? これらの情報を知りたいと思いましたが、分かりませんでした。

夜になり、原子力緊急事態宣言発令、その後、3キロ圏内に避難指示が出されました。私たちも避難したほうがよいだろうか?情報がない中で、判断に迷いました。

夜の11時頃、政府災害対策本部の情報を目にし、メルトダウンの危険性が高いと判断、避難を決めました。友人が、オムツや衣類、食料、水等を車に積みこみ、眠り始めていた子どもたちを起こして車に乗せました。私は、避難するというメールを無差別に送信しました。「何事もなければ、帰ってくればいい、今は一刻も早く子どもたちを遠くへ」、そう話して、真夜中に出発しました。雪のちらつく、静かな夜でした。

南へ向かう国道は、地震で陥没しており不通、東北自動車道も通行止めで、私たちは西の山を越えることにしました。山は吹雪でした。真っ白な視界の中を、私たちは一睡もせず必死に車を走らせました。

翌朝、会津の知人宅で休憩をとり、埼玉で被災していた夫がレンタカーで合流、私たちはそこから家族3人で避難を続けました。新潟に向かう途中で、一号機の爆発を知りました。はりつめていた糸が切れるように、私は声をあげて泣きました。

新潟空港でレンタカーを乗り捨て、キャンセルのでた飛行機に飛び乗り伊丹空港へ。大阪からは新幹線で12日の深夜に広島に到着し、13日午後、山口県宇部市にある夫の実家に到着しました。

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私たちは、このように緊急避難しました。それは、数々の幸運が重なったからこそできた避難でした。各地では渋滞が起きていました。また、避難したくてもガソリンが手に入らず、できないという人もたくさんいました。病気をかかえた人たちが避難の途中で何人も亡くなりました。また、浜通りから避難してきた方々を助けるために、避難したくてもできない、という友人もありました。

何より、避難するべきかもしれない事態が進行していることを知らないままの大勢の被災者がいました。

原発事故による住民避難は、情報の入手、避難の判断、避難の実行、すべての面で、とてつもなく困難なことです。

私が現在住んでいる木津川市をはじめ、多くの自治体の原子力防災計画は、国、府、電力会社から収集した情報を得ることを前提としています。しかし、福島原発事故では、実際には、十分な情報は届きませんでした。停電の中で、原子力緊急事態も、3キロ圏内避難指示も、殆どの住民が知らないまま夜をすごしました。さらに情報の隠蔽がありました。福島県は、放射性物質の拡散予測を、県民に知らせることはありませんでした。

3月15日、福島市内では、毎時24マイクロシーベルトを超える空間線量が観測されました。ヨウ素剤も配布されなかったため、人々は本当に無防備に初期被ばくをしてしまいました。政府や県、東京電力の発表する情報や指示に従ったことで、多くの人が無用な被ばくを強いられたのです。これは許されてはならないことです。このような裏切りを私は想像もしませんでした。悪夢のような現実の展開に、心底恐怖し、憤り、苦しみました。

この悲劇がどのように起きたのか、今後、どのような体制をとるべきなのか、十分な検証と対策が必要です。

そして今日、もうひとつどうしてもお伝えしたいことは、緊急避難は、「長い長い被災のほんの始まりにすぎない」のだということです。

緊急避難した人たちも、職場や学校の再開とともに帰らざるを得ませんでした。夫も、1ヵ月後には職場に帰り、それから私たちは、長い二重生活が続きました。この6年間で家族併せて10回以上の転居をし、夫は職場を2回変え、昨年ようやく家族3人の暮らしを再開することができましたが、人とのつながり、仕事、将来の夢、家族の平和な日常を奪われ、その傷は癒えていません。家族分離、コミュニティの崩壊、病気、死、多くの喪失を経験し、その苦しみは今も続いています。

危険な放射能汚染がありながら、避難指示は解除され、区域外避難者の住宅提供も打ち切りとなります。私はまた、このような被災者を切り捨てるような政府の施策に、深く傷つき、憤っています。

私たち家族は緊急避難をしましたが、しかし、個人の努力では、原発事故から本当に逃れることはできないのだと、この6年でひしひしと感じています。

原発が一度事故を起こせば、何百年もの間、土や海や山の木々は汚染されます。

人々の人権は奪われ、被ばくを受け入れることを強要され、生きる尊厳を傷つけられます。

こんな悲惨な事故は福島で終わりにしなければなりません。

私は、福島原発事故の悲惨を知るひとりとして、未来世代に責任を感じる大人として、大飯原発をはじめ、すべての原発は絶対に稼働させてはならないと、強く訴えます。

以上

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