◆第15回口頭弁論 意見陳述

第15回口頭弁論意見陳述

福島敦子   竹本修三   赤松純平[5 MB]6/22提出の4枚めグラフ訂正版[523 KB]

福島敦子

水は清き故郷(ふるさと)でした。
命がけで川へ戻ってくる鮭の躍動が、子どもたちに感動を与えてくれる故郷(ふるさと)でした。
たらのめや栗や、まつたけが季節の移り変わりを教えてくれました。
今は、除染の効果が少なく、人間の住む世界と隔絶された世界が大きく広がる故郷(ふるさと)になりました。
癒しと恵みをもたらしてくれた私たちの故郷(ふるさと)の山や海に、何百年も消えることのない毒をまかれたのです。

私は、福島県南相馬市より京都へ避難してきた福島敦子です。
福島第一原子力発電所の爆発当時は川俣町そして、放射線量が最も高く示された福島市に避難しておりました。あの頃は、なぜ近距離の南相馬市より線量が高いのか解りませんでした。
一度戻ろうと思った南相馬市は13日には市の境に川俣町の警察署員などによりバリケードが張られ、入ることができなくなりました。
2011年3月13日の夜、福島市飯坂町の小さな市民ホールの避難所には、800人以上の人が押し寄せました。地震のたびに携帯電話を手にする人々、消灯後の部屋がぼんやり青白く光ると、夜中なのに大きな荷物をもってせわしなく足早に出入りする人々が寝ているわが子の頭を踏みそうになります。放射能が多く降り注いだとされる15日には、仮設トイレまで雪をかぶりながら入らなければなりませんでした。私はその日の夕方、鼻血を出しました。目の前の男性も2人、鼻血を出していました。
毎日毎日外で遊べない子どもたち。ボランティアの人に風船をもらった娘たちは次々に飛び跳ねては上手にパスしあいます。足元には、体を横たえている大人が数人いました。わたしは、一番年長の娘に今すぐやめるよう強く言いました。辛抱強い娘は子どもたちにそれぞれ家族のもとへ戻るよう告げると、声を殺して泣きました。
明け方のトイレには、壁まで糞便を塗りつけた手のあと。苦しそうな模様に見えました。
食べるものなどほとんど売っていないスーパーに何時間も並び、列の横に貧血で倒れている老女がいました。インフルエンザが蔓延した近くの避難所では、風呂に入ることができないため、温泉街までペットボトルに温泉水を汲みに行き、湯たんぽの代わりにして暖をとる人がいました。
ガソリンを入れるのに長時間並び、ガソリンを消費して帰ってきました。思うほどガソリンが手に入らずより遠くへは避難できない人がたくさんいました。
雪が降る季節なのに、冷たいおにぎりや菓子パンと紙パックの牛乳を配る列に並んでいると、「戦争が終わって、年をとってもまたこうして配給の列に並ばなければならないなんて」と涙を流す人がいました。隣のスペースに、孫にかかえられて避難してきた年老いた人は、硬い床に座っていることがつらくて、物資の届かない南相馬市へ帰っていきました。ロビーにあるテレビで、次々に爆発していく福島第一原子力発電所の様(さま)を避難所の人たちが囲

んで観ている。毎日が重く張り詰めた空気の中、私を含め死を覚悟した人も大勢いた避難所の生活は、昨日のことのようで忘れられません。

2011年4月2日、私は娘2人を連れ、京都府災害支援対策本部やたくさんの友人の力を借り、ごみ袋3つに衣服と貴重品をつめて、京都府へと3度目となる避難をしてまいりました。
その時に、貴重品以上に大切なものが私たちにはありました。『スクリーニング済証』というものです。
これを携帯しなければ、病院に入ることも避難所を移ることもできませんでした。私たちは、被ばくした人間として、移動を制限されていたからです。また、この証明書は、外部被ばくに限られた証明書であって、私たち家族の内部被ばくの状況は、今はまだはっきりとわかりません。これは、広島長崎の原爆被害、チェルノブイリの症状でも明らかなように、血を受け継いでいくものであり、永遠の苦しみとなることはゼロではないからです。
到着は夜でした。翌朝からは、京都府災害支援対策本部の方の案内で居住地を決めたり、娘2人の小学校の手続きをしたりしました。2日後に、始業式がせまっていました。

40歳の2人の子を持つ女性として、就職活動も始めなければなりませんでした。時給800円の6ケ月期限の事務の仕事にかろうじて就くことができました。
学校では、名前がふくしまということもあり、『フクシマグンバツ』とあだ名をつけられたこともあった娘ですが、気遣ってくださる先生方、たくさんの気の合う友達に恵まれ、持ち前の明るさで乗り切りました。さよならを言う間もなくバラバラになってしまった南相馬市の友達には、避難所の様子や仮の校舎で学ぶ姿をテレビの報道で見つけては、元気をもらっているようでした。
私たちの暮らしは、その日その日を精一杯『生きる』ことで過ぎていきました。

福島第一原子力発電所の状況は収束せず放射能が放出し続けています。なぜ事故が起こったのかの具体的な理由も責任も、誰一人問われることなく、ただ被災した人々は日々の生活に疲弊し、家族の崩壊と向かい合っていかなければならなくなりました。除染が進まない避難指示区域の解除をされても、家はすでにすさみ、なじみの店はありません。孤独死や、自殺する人を耳にすることが増えました。子どもたちの声も聞かなくなりました。
私たちが今、福島県へ帰ったとしても、元の街にはもう戻らないのです。

こう陳述したのはちょうど3年前。
国は、『避難者がいる状態が、復興の妨げである』との政治判断の元、このすさんだ状況そのものがまちの復興を妨げていると思わせるかのように、避難指示区域解除を続けざまに打ち立てていきました。避難者への住宅無償提供の一方的な打ち切りもこの避難指示区域解除に通ずるものであります。東京を中心に、この京都でも住宅無償提供打ち切りになった今、私を含め路頭に迷いつつある仲間がいます。わが身をわが子とともにここ京都に

安心して暮らす生活基盤を置くこともできない、それが原発事故の恐ろしさです。

また、最近の『福島県民健康調査』の結果では、185名の子どもたちが小児甲状腺がんの患者数だと公表されていますが、実際には2千人以上の子どもたちが、B判定以上の結果を受けておきながら『経過観察』とされ、この健康調査から外され、小児甲状腺がんになっても保険診療になっていて数すらわからず、県民健康調査における患者数にカウントされていない今後もされないことが明らかになったことも、事故の真相をうやむやにしようとしている証拠です。

このような一つ一つの衝撃的事実がある中で、多くの国民が、原発事故は収束していない、避難者は強制帰還させられている、事故の原因究明もなされず、国や東電は謝罪もしていないことをきちんと知ることもなく日々を過ごしています。

6年が経ち、真の情報に触れることができない多くの人々は、原発事故への関心が薄れていき、意識の風化と知識の開きが生まれ、無意識の中で子どもたちにも飛び火し、全国で『原発いじめ』が起こりました。

私たち自主避難者は、このように経済的にも追いつめられ、原発事故の罪にも問われない国と東電のあまりにも非情な対応にも歯を食いしばり、この京都にいなければならないのはなぜか。避難指示区域解除後のまちに戻った人々はほんの1割程度にとどまる自治体があるのはなぜなのか。
私たち避難者は、国の復興大臣から「避難は自己責任だ」と罵声を浴びせられたとしても、「裁判でもなんでもすればいい」と切り捨てられても、そして、私たちの美しかった故郷を、水は清かった故郷を、『事故は東北だったからよかった』とののしられ、打ちのめされても、なぜ踏みとどまっているのか。
避難指示解除されたとしても、放射能汚染の状況が変わらなければ帰れない。はっきりとした理由。それは、私たちはみな、『放射能汚染した地から、被ばくを避けるために避難してきた』からです。

子どもの引きこもりが原因で避難元に戻った仲間もいます。福島県や、その近隣都県に住まう人々の中にも、放射能汚染に対する不安を抱え住んでいる人は多いのです。

そうした中での大飯原発の再稼働は、関西電力の経営努力の怠慢さも浮き彫りになり、地元の人々の不安と日本国民の原発に対する懸念の声を全く無視した人権侵害であり、日本だけではなく世界最大級の公害問題といえます。また、先の名古屋高裁金沢支部であった大飯原発3・4号機差し止め請求裁判控訴審では、専門家の証人尋問で元原子力規制委員会の島崎委員長が、「問題の入倉・三宅の過小評価」を証言したことは記憶に新しいです。

司法に対しては、日本国民の大きな民意を水俣裁判のように50年以上も放置することなく、真剣に向き合ってくださることを希望します。

今日もここに、私の実家の庭の土を持ってまいりました。子どものころにシャベルで穴を堀ったり、イチゴを摘んだり、母は長い年月をかけてコケを育て、灯篭の上にも珍しい種

の苔が生える自慢の癒しの日本庭園でした。そのコケをはぎ、むき出しになったこの土を、京都・市民放射能測定所で測定したところ、放射性セシウム濃度は、1平方mあたり93万ベクレルでした。
これは、チェルノブイリ被災者救済法では移住必要地域にあたるレベルです。ここが、チェルノブイリのある地域なら、母たちは移住しているはずであります。

裁判長、子どもを守ることに必死な、懸命な母親たちをどうか救ってください。
子どもたちに少しでも明るい未来をどうか託してあげてください。
私たち国民一人ひとりの切実な声に、どうか耳を傾けてください。
大飯原発の再稼働は、現在の日本では必要ないと断罪してください。
もう、私たち避難者のような体験をする人を万が一にも出してはいけないからです。
司法が健全であることを信じています。日本国民は、憲法により守られていることを信じています。

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地震国ニッポンで原発稼働は無理!  原告団長 竹本修三

図1 地震国ニッポンで原発稼働は無理!

(1)福島第一原発の事故は6年経ったいまでも収束していない。

国会事故調は、大気中への放射能漏れについて、「福島第一原発事故の主因を津波のみに限定するべきではなく、地震による配管損傷の可能性も否定できない」としている。

(2)福島の原発事故は例外的なものではなく、地震国ニッポンの全ての原発が同様な事故を起こす危険性をはらんでいる。

図2 世界の地震・日本の地震

M4以上の地震をプロットすると日本の島影は見えなくなる。
日本の国土面積は全世界の約0.25%.そこで、世界のM6以上の地震の約20%が起こっている。

図3 世界の地震源分布と原発立地の図

4つのプレートの会合部である日本に50基超の原発が設置されたのは世界的に見て異常。

図4 6年を経た福島第一原発事故の現状(1~4号機)

  • 2011年に大気中に放出された放射能は全体の約1%、 残り約99%は辛うじて原子炉と建屋の使用済み核燃料プールの中にあるという。
  • 1~3号機の格納容器内に276トンのデブリ、また燃料プール中には、合計1573体の燃料棒が残っている。

図5 とくに2号機は?

格納容器内の空間で650Sv/hが見つかる!(1時間650シーベルト=年間569万シーベルト)。これは、「避難指示解除」の基準になっている年間20ミリシーベルトの約2.8億倍に相当する。

図6 福島第一原発は3・11地震(Mw9,0)の余震域にある!

  • 2011年4月11日にM7.0の余震が起きた(福島県浜通り地震)。
  • 原発までの震央距離は61.7km、いわき市で震度6弱 。
  • この地震で装置の損傷等は報告されていない。震度5強くらいの揺れではデブリは大丈夫ということであろう 。

図7 アンダーコントロール?

  • 余震域にある福島第一原発の直下(震央距離10km以内)で、M7クラスの地震が起こること、傷だらけの原子炉が震度6強~7の揺れに見舞われ、新たな放射能汚染(あるいは放出)をひき起こすことになる。
  • これまでの世界の原発事故で、メルトダウンの後に核燃料デブリが震度6強とか震度7の強震動で揺すられた例は過去にない。地震国ニッポンの福島第一原発が初めて経験することになるであろう。

図8 M7クラスの地震予知は不可能!

  • 1995年1月の兵庫県南部地震(M7.3)のあと、2016年4月の熊本地震(M7.3)の直前までの約20年間に、M7以上の内陸の地殻内断層地震は、2000年に鳥取県西部地震(M7.3)、2005年に福岡県西方沖地震(M7.0)、2008年に岩手・宮城内陸地震(M7.2)、2011年福島県浜通り地震(M7.0)と、5~3年間隔で広範囲な地域でバラバラと起こった。
  • これらの地震の前兆的ひずみ変化は観測されなかった。さらに、2000年鳥取県西部地震と2005年福岡県西方沖地震は活断層の知られていないところで起こった。
  • 全国の原発が危ない。いつM7級の地震に襲われるか、地震学者もわからない。

図9 日本付近の地震

  • M8を超す大地震は、太平洋側の海・陸プレート境界で起きる海溝型巨大地震である。
  • 日本列島内陸部及び日本海側では、プレート間のせめぎあいによる地殻ひずみの蓄積に伴ってM8以下の地殻内断層型地震が起きる。

図10 わが国の地震予知研究の現状

  • 1962:地震予知のブループリント(坪井・和達・萩原)。
  • 1965:地震予知計画が発足。そのなかで地震の直前予知の本命と目されていたのが傾斜計や伸縮計を用いた地殻変動連続観測である。(1943年鳥取地震M=7.2の際に地球潮汐変化の2倍近くの異常傾斜変化を京都大学が生野鉱山で観測したことが契機。)

図11 地震予知計画発足前の地震直前の異常地殻変動

昭和18(1943)年9月:鳥取地震(M=7.2)のときに震央から60km離れた生野鉱山で異常傾斜変化が観測された。

図12 ブループリントのまとめ(32ページ)

  • 地震予知がいつ実用化するか、すなわち、いつ業務として地震警報が出せるようになるか、については現在では答えられない。しかし、本計画のすべてがきょうスタートすれば、10年後にはこの間に充分な信頼性もって答えることができるであろう。
  • 1965年に発足したわが国の地震予知5か年計画(第1次のみ4年で終了)は第2次、第3次と進むにつれて、次第に研究の進捗面と予算要求の書類上の乖離が大きくなった。

図13 わが国の地震予知計画は1995年兵庫県南部地震で破綻

  • 図は兵庫県南部地震(M=7.3)の本震と24時間以内の余震分布及び六甲高雄観測室の位置を示す。
  • 震源断層面のほぼ直上で高精度レーザー伸縮計を用いて精密観測を実施していたが、地震前の異常変化はまったく観測されなかった。

図14 六甲高雄観測室内のレーザー伸縮計の配置

図15 兵庫県南部地震の予知はできなかった!【地震前1週間の記録】

京大防災研・理学部では、新神戸駅から2kmほど北に上がった新神戸トンネル内の六甲高雄観測室でレーザー伸縮計を用いた高精度地殻変動精密観測を続けていたが、地震の前兆的変化は捉えられなかった。

図16 地震前30時間の記録

M7.3の震源領域のほぼ真上で観測していたにもかかわらず、地震発生前に異常ひずみ変化は、まったく見られなかった。精密地殻変動の観測をやっていても、M7クラスの地震の予知はできない。

図17 兵庫県南部地震前10年間の微小地震活動

微小地震の活動変化を追いかけても、地震予知にはつながらない。

図18 活断層はどうだろうか?

  • 兵庫県南部地震までに認識されていた近畿およびその周辺の近畿地方では山崎断層や三峠断層が注目されていた。六甲断層系と淡路島の断層系がいっしょに動いてM7.3 の地震が起こるとは予測されていなかった。
  • 地震後に、兵庫県南部地震の震源断層と山崎断層は共役断層との見方もある(藤田1995)。
  • 活断層だけに注目していても、地震予知はむずかしい。

図19 兵庫県南部地震の地震断層

  • 兵庫県南部地震の際に、地表に地震断層が現れたのは、淡路島北部の野島断層だけであった。
  • 後世の人が野島断層を見て、ここだけが活断層と考えれば、兵庫県南部地震の全体像を見失うことになる。

図20 活断層が知られていない場所でも、M7級の地震は起こる

2000年10月6日13時30分 鳥取県西部地震(M7.3)の例。

図21 福岡県西方沖地震の例

  • 2005年3月20日の福岡県西方沖地震(M7.0)は、近くの陸域には警固(けご)断層という活断層が認められていたが、地震はその北西延長上の玄界灘の地震空白域で発生した。この地震の余震域と警固断層が直線上にほぼ連続していることから、2005年の地震後は、一連の活断層帯であると考え、これらをまとめて警固断層帯として扱っている。
  • 若狭湾の活断層が連動して動く可能性は十分考えられるし、既知の活断層の延長上を含めていっしょに割れる可能性も考えておかなければならないであろう。

図22 大飯原発の現状:補正書の概要(地震)関電資料(2016)

  • ここまでは、主にわが国の地震予知の現状を説明したが、専門家の話によれば、“いわゆる地震予知と、JASO(耐震総合安全機構)による耐震安全性審査で行われているシナリオ地震動予測とはまったく無関係である。”と指摘された。これも問題であるがそれはさておき、以下に関電が大飯原発で用いている想定地震についての矛盾点を述べる。
  • 関電は2013年7月の段階でFO-B~FO-A断層の2連動を基本ケースとして基準地震動700ガルを策定した。ここで、FO-A断層と熊川断層は15km離れており、この間が連続していることを示す地質構造は確認されていなかったそうだ。
  • その後、原子力規制委員会の議論も踏まえて、2016年5月には、熊川断層を含む3連動を基本ケースとして基準地震動856ガルを策定した。

図23 FO-B~FO-A~熊川断層の3連動の想定地震

  • ・想定地震の断層面は、既存のFO-B、FO-A及び熊川断層の3つの活断層をつなぐ位置に仮定された。
  • 1~9は、想定地震動の計算に用いられた破壊開始点の位置を示す。
  • 断層面はこの位置を通り基本的に鉛直方向(断層傾斜角90°)である。
  • アスペリティの領域は薄い緑色で示されているが、この範囲が唯一解ではない。
  • 856ガルという基準地震動を決めるのに用いられたパラメータには2桁の精度が保証できないものも多数含まれている。
  • このことは、すでに指摘したが、準地震動を3桁の有効数字で表記するのは、ゴマカシである。

図24 上林川断層の評価

  • 関電は、断層の南西端を味方町付近と評価。また、断層の北東端を福井県との県境付近と評価。
  • 想定地震断層の北東端から大飯原発は20km離れているので、大きな影響はない。  ホントにそうか?

図25 FO-B、FO-A、熊川断層と上林川断層

  • 国土地理院の過去111年の測量結果によれば、このあたりは東西方向に主応力の方向があり、年間1×10-7の割合で縮み変化を示している。
  • 関電は、FO-B、FO-A、熊川断層の3連動による想定地震を最も深刻なケースとして856ガルの基準地震動を定めているが、その場合の起震力としては、東西方向の主応力を考えているのであろう。
  • これが重要なポイントで、それならば、共役関係をなす上林川断層も同じウェイトで考えなければならない。
  • FO-Aと熊川断層の間が連続していることを示す地質構造は認められず、15km離れているものを一連の想定地震の震源として認めている。
  • 上林川断層の北東端を走行に沿って20km延長したとことに大飯原発がある。
  • 地震断層の一部しか活断層として残っていない1995兵庫県南部地震の場合や、既存の活断層の延長上の空白域で起こった2005福岡県西方沖地震の例から考えても、上林川断層の北東端の延長上を大飯原発まで伸ばした想定地震を考えなければならない。

図26 国土地理院 過去111年間の地殻変動

  • この地域は東西方向に1×10-7/年の縮み変化をしている。
  • 早ければ1000年に1度、同じ場所で地震が発生することになる。

図27 共役(共軛:きょうやく)断層

水平方向の同じ圧縮(または引っ張り)力が働いたとき、互いに断層面が直交し、ずれの向きが逆向きになる断層の組のこと。郷村断層と山田断層の走行は約90°ずれており、主圧力の方向と互いに約45°ずれているのは、その典型的な例。「FO-B、FO-A及び熊川断層」と「上林川断層」は東西主圧力のもとでの共役断層と考えられる。

図28 南海トラフの海溝型巨大地震と若狭湾周辺の地殻内断層地震

1925年 北但馬地震(M6.8)、1927年 北丹後地震(M7.3)
1943年 鳥取地震 (M7.2)、
1944年 東南海地震(M7.9、Mw8.2)
1946年 南海地震(M8.0、Mw8.4)、
1948年 福井地震(M7.1)、1963年 越前岬沖地震(M6.9)
2000年 鳥取地震西部地震(M7.3)、2016年 鳥取地震中部地震(M6.6)
2038年(?) 南海トラフの海溝型大地震(>M8.0)

図29 2016年10月21日の鳥取県中部地震(M6.6)

だんだん若狭湾に近づいてきている。次は。若狭湾(?)

図30「新規制基準の考え方について」

「科学技術の分野においては、絶対的に災害発生の危険がないといった『絶対的な安全性』というものは、達成することも要求することもできないもの…」(2ページ)。

  • このことは航空機の発達の例から、一般論としては理解できる。しかし、航空機事故は被害が限定的であるのに対して、原発事故は、無関係な広範の人々・動植物が被害を受けるだけではなく、地球全体に影響が及ぶ点が根本的に異なる。
  • 東電は、原発事故前に敷地を15.7mの津波が襲うことも検討していながら、そんなことは千年に1度あるかないかのことだから、いまその対策を考える必要はないと言い切って、津波想定を6.1mとしていた。そして現実には15.5mの津波が、福島第一原発を襲った。
  • いまの原子力規制委員会の「新規制基準」を忠実に守っていても福島第一原発のような事故は再び起こるであろう。
  • 裁判官が、科学技術の進歩のためにはそれも許せると考えるかどうかに注目している。

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