◆原告第39準備書面
第3 原子力規制委員会の「考え方」は最高裁判決に反し,司法審査の基礎とできないこと(甲369の13~26p)

2017(平成29)年10月27日

原告第39準備書面
-原子力規制委員会の「考え方」が不合理なものであること-

目次

第3 原子力規制委員会の「考え方」は最高裁判決に反し,司法審査の基礎とできないこと(甲369の13~26p)
1 原子力規制委員会の考え方の要旨は次のとおりである(甲369の13p)
2 上記の考え方が法の明文や最高裁判決等に反すること
3 規制委員会の上記「考え方」が,今日における科学的知見にも反すること
4 原子力規制委員会が各分野について最新の専門的知見を有するという前提を欠くこと


第3 原子力規制委員会の「考え方」は最高裁判決に反し,司法審査の基礎とできないこと(甲369の13~26p)


 1 原子力規制委員会の考え方の要旨は次のとおりである(甲369の13p)。

(1) 原子力発電所の安全審査には,多方面にわたる高度な最新の科学的,専門技術的知見に基づく総合的判断が必要であり,原子炉等規制法の定めは,基準の策定について,安全確保に関する各専門分野の学識経験者等を擁する原子力規制委員会の科学的,専門技術的知見に基づく合理的な判断に委ねる趣旨である。

(2) 原子力発電所における安全性は,その危険性が社会通念上容認できる水準以下であるか,その危険性の相当程度が人間によって管理できる場合に,その危険性の程度と科学技術の利用により得られる利益の大きさとを比較衡量した上で,これを一応安全として利用するという相対的安全性によるべきである。

(3) 相対的安全性の具体的な水準は,原子力規制委員会が,時々の最新の科学技術水準に従い,かつ,社会がどの程度の危険までを容認するかなどの事情をも見定めて,専門技術的裁量により選び取るほかはなく,原子炉等規制法は,設置許可に係る審査について,原子力規制委員会に専門技術的裁量を付与するに当たり,この選択をも委ねたものである。


 2 上記の考え方が法の明文や最高裁判決等に反すること

(1) 法の明文に反すること

「考え方」の最も重大な問題は,福島第一原発事故後の法改正の経緯や趣旨に一切触れておらず,これらを無視している点である。同事故によって生じた結果の重大性を立法事実として,同事故の反省を踏まえ,そのような深刻な原発災害を二度と起こさないようにする,ということこそが上記法改正の趣旨であり,推進の論理に影響されることなく,厳格に安全性を確保しなければならないこととされたことは,国会事故調報告書,立法時の国会における議論,衆議院環境委員会決議文及び参議院付帯決議などからも明らかである。そして「考え方」がこれらの立法に反していることは,一読して明らかである。

(2) 最高裁判例に反すること‐専門技術的「裁量」と政策的裁量の混同

原子力規制委員会が上記「考え方の要旨」2のように考える根底には,原子力技術も科学技術の一つである以上,他の科学技術と同様,一定のリスクは社会として負担すべきであるという価値判断が存在すると思われる。しかし,万が一深刻な事故が発生してしまった場合の被害の甚大性[17]に照らして,他の科学技術と全く同様の安全性しか要求されないということはできない[18]。伊方最高裁判決が「深刻な災害が万が一にも起こらないようにする」と判示しているのも,まさにこの意味においてである。また,「裁量」の内容・範囲を画するには,法が原子力規制委員会に「裁量」を認めている趣旨を考える必要があるが,前述のとおり伊方最高裁判決は、法が行政庁に専門技術的「裁量」を認めている趣旨は,原子力発電所による「深刻な災害が万が一にも起こらないようにする」ためとする。また原子力規制委員会設置の目的は,福島第一原発事故の反省に立って,事故の「防止に最善かつ最大の努力」を行い,国民の生命をはじめとする諸利益の保護等に資するためであって(設置法1条),原子力規制委員会の任務は,そのために,「原子力利用における安全の確保を図ること」にあるのであるから(同法2条),専門技術的「裁量」の内容や範囲は,そのような趣旨・目的等に照らして厳格に解されなければならない。

現に伊方最高裁判決は,政治的政策的裁量と同様の広汎な裁量を認めたものと誤解されることを避けるため,判決文に「裁量」という語を用いていない[19]

1991年の裁判官会同概要集録でも,原発の安全性審査において,政治的,政策的裁量の余地がないことを明言し,専門技術的裁量について,さらに細かく2つの考え方を示している。1つは,比較的広汎に専門技術的裁量を認める立場であり,例えば,「幾つかの科学的学説のうち,いずれを採ることも許される」というものである。もう1つは,行政庁として,最高水準の科学的知識に基づいて常に最良の学説を選択し,科学的に正しい判断をするべきであると考えるもので,裁量の範囲を厳格に捉えるものであり,後者が推奨されている[20]

福島第一原発事故以前からこのような考え方が紹介されていたにもかかわらず,実際の裁判では必ずしもその理解が十分ではなかった。同事故後,法改正の趣旨等も踏まえれば,上記会同概要集録にいう後者の見解,専門技術的裁量の範囲を厳格に捉える立場が採用されるべきであり,これこそが伊方最高裁判決を正しく解釈するものである。

にもかかわらず,上記「考え方の要旨」3のとおり原子力規制委員会は,「時々の最新の科学技術水準に従い,かつ,社会がどの程度の危険までを容認するかなどの事情をも見定めて,専門技術的裁量により選び取るほかはな」いとして,政策的判断についてまで原子力規制委員会の裁量が及び,司法審査が及ばないかのような主張を行っている。

伊方最高裁判決においても,行政庁に認められる「裁量」は政治的,政策的裁量とはその性質の異なる専門技術的裁量(そもそも「裁量」という言葉自体用いていない)であり,「社会がどの程度の危険までを容認するか」という,まさに政策に関わるような事柄に対する裁量までは認められていない。このような事項についてまで裁量を認めよ,というのは,福島第一原発事故以前の司法審査から,さらに後退させるような主張であり,同事故後,断じて採用することはできない。

また,法が原子力規制委員会に対して,事故の「防止に最前かつ最大の努力をしなければならないという認識に立」つことを求め,「確立された国際的な基準を踏まえ」ることを要求している趣旨からすれば(設置法1条),法が「考え方」が述べるような広範な裁量を認めていないことは明らかである。

[17] 他の科学技術が事態の進展に伴って終息していくのに対し,I)原発事故は事態の進展に伴ってむしろ拡大していく点,II)トライアルアンドエラーによる実験と実証,検証を踏まえた安全性の向上という過程を踏むことができない点,III)地震や火山など科学的に不確実な現象に対応しなければならない点,並びに,IV)原発事故被害が,i)遺伝子を傷つけて回復できないという意味での不可逆・甚大性,ii)極めて広範な地域に大量の放射性物質をまき散らすという広範囲性,iii)半減期が長く,原発の利用を承認していない将来世代にも深刻な被害を生じさせかねないという長期・継続性,及び,iv)地域のコミュニティを根こそぎ破壊するという全体性という特徴を有する点など,他の科学技術にはない被害の特殊性が存在する。

[18] 一般に,被る被害が質的・量的に甚大であればあるほど,より高度の安全性が求められる(蓋然性の小さい事象に対しても対応しなければならない)という理念を,「反比例原則」と呼ぶ。

[19] 伊方最高裁調査官解説は,判決が「裁量」という文言を用いなかった理由として,「『専門技術的裁量』が,安全審査における具体的審査基準の策定及び処分要件の認定判断の過程における裁量であって,一般にいわれる『裁量』(政治的,政策的裁量)とは,その内容,裁量が認められる事項・範囲が相当異なるものであることから,政治的,政策的裁量と同様の広汎な裁量を認めたものと誤解されることを避けるためであろう」としている(417頁)。

[20] 最高裁判所事務総局「平成3年行政裁判資料第64号行政事件担当裁判官会同概要集録(その五)中巻・手続法編Ⅰ」は,「核燃料物質の使用施設が安全か否かは,高度の科学的判断が必要」ではあるものの,「政治的裁量の場合のように,諸々の事情が関係し,政治的立場等により幾つかの考え方がいずれも成り立ち得るが,そのどれを採るかは行政庁にゆだねられているといった性質のものではないように思われる」と述べている(652~653頁)。

(3) 確定した高裁判決違反-単純な比較衡量論は採用しえないこと

また,上記「考え方の要旨」2によれば,原子力規制委員会は,「その危険性の程度と科学技術の利用により得られる利益の大きさとを比較衡量」するとしている。

ここでいう「比較衡量」の意味は定かではないが,原発訴訟における比較衡量の在り方について整理すると,図表1のようになる。

図表1 原発訴訟における比較衡量と安全性の下限 【図省略】

図表1の黒色曲線(必要性が高ければ安全性は低くても良い)が,必要性・公益性と安全性との一般的な比較衡量論であるが,これは志賀原発2号機控訴審判決によっても明確に否定されているものであり[21],推進側の論理に影響されないという前記衆議院環境委員会の決議文にも抵触するものであって到底採用し得ず,原子力発電所の安全性には,必要性・公益性がいかに大きくとも下回ることができない,いわば下限が存在することは,従来の裁判例からも優に認められる。

しかも,上記「考え方の要旨」3によれば,「社会通念」の水準の選択についても,法は,原子力規制委員会の選択に委ねたものとしているが,これは余りにも司法を軽視し,安全を軽視する考え方といわざるを得ない。具体的な水準を原子力規制委員会がいかようにも決めてよいというのは,図表1でいう「社会通念」とは,原子力規制委員会の「社会通念」と認めたものということになるのであって,そうすると,原子力規制委員会が安全と認めたものは全て安全ということになり,司法審査は一切及ばないという極めて不当な結論になる。かかる「考え方」の記載には,原子力規制委員会による司法軽視の態度が端的に表れている。

[21] 志賀原発2号機控訴審判決は,「原子力発電所の利用により得られる利益がいかに大きなものであったとしても,その危険性の程度を緩和することはできず,…(略)…放射線,放射性物質の環境への排出を可及的に少なくし,これによる災害発生の危険性を社会通念上無視し得る程度に小さなもの」に保つことを要するとしている。なお,女川原発控訴審判決は,単純な比較衡量論ではなく,原発の稼働により,周辺住民に「具体的な危険をもたらすおそれのある場合には,いかにその必要性が高くとも,その建設・運転が差し止められるべき」であるが,逆に,原発の「必要性が著しく低いという場合には,これを理由としてその建設・運転の差止めが認められるべき余地がある」と,片面的な比較衡量論を採用している(図表1の緑色実線)。

(4) 学説及び海外の裁判実務

科学に不確実性が存在する場合の安全性の判断方法について,名古屋大学法科大学院の下山憲治教授は,唯一正しい解決に向けた意思決定(法の適用)ができるとは限らず,例えば,要件を充足していないのに「充足している」と誤判定し権利・自由を制限してしまう「第一種の過誤」と,逆に,充足しているのに「充足していない」と誤判定し保護すべき権利利益に被害が発生してしまう「第二種の過誤」という統計学上の区分を参考に,対象となる法制度の趣旨・目的が指向する方向性が「第一種の過誤」の回避にあれば「疑わしきは自由のために」,「第二種の過誤」の回避にあれば「疑わしきは安全のために」という基本方針に結びつく,と述べる[22]

そして,原子力発電所の持つ潜在的な危険性,事故が起こった場合の被害の特殊性や福島第一原発事故後の法改正の趣旨に照らせば,原子力発電所の規制においては,当然に「第二種の過誤」の回避,すなわち,「疑わしきは安全のために」という基本方針が採用されなければならない[23]

図表3 第1種の過誤と第2種の過誤の整理 【図省略】

このような考え方は,ドイツの原発訴訟において一般的に採用されている方法である。
ドイツでは,原子力法において「原子力の危険と電離放射線の有害な作用から生命・健康・財産を保護すること」が目的とされており(原子力法1条2号),必要とされる事前配慮がある場合には,技術的に不能であっても措置を講じなければならず,技術の活用に対する人の生命・健康の価値の優越性が承認されている[24]。このような規定ぶりは,日本の法規制と大きく異なるところはない。

ドイツにおいても行政庁の裁量は認められているが,このような法の趣旨に照らし,その裁量には,①現存する不確実性を排除するために,工学上の経験則に準拠するだけでは足りず,科学(理論)的な想定や計算に過ぎないものをも考慮に入れなければならず,②全ての支持可能な(代替可能な)科学的知見を考慮に入れなければならず,支配的な見解に寄りかかることは許されず,③十分に保守的な想定をもってリスク調査やリスク評価に残る不確実性を考慮に入れなければならない,という制約が存在する[25]

これまでの原発訴訟において,事業者ないし行政庁は,住民側が指摘する不確かさの考慮について正面から反論することなく,「全体として適切に考慮している」とか,自らの主張のみを提示して,合理性があるとのみ説明してきた。これでは,裁判所は,事業者ないし行政庁がなぜ住民側の指摘する問題を考慮しないのか,その判断の過程を追うことができない。判断の過程を追うことができないということは,事業者ないし行政庁の説明が不十分であるということにほかならず,その判断に過誤,欠落があったとして裁量の濫用・逸脱があったものと推認せざるを得ないのである。大津地裁2016年3月9日高浜原発3・4号機運転差止仮処分決定も,まさにこの点を問題視して事業者の説明が不十分であると判断していると考えられる。

[22] 下山憲治「行政上の予測とその法的制御の一側面」(「行政法研究」第9号)72頁

[23] このような「疑わしきは安全のために」という基本方針が採用されている例として,食品衛生法7条1項が挙げられる。同項は,「人の健康を損なうおそれがない旨の確証がないもの」について,食品衛生上の危害の発生を防止するために必要があると認めるときは,その食品の販売を禁止することができるという規定であるが(2項にも同様の表現がある),これは,人の健康を損なうおそれがある場合のみならず,その疑いを払拭できないという「いずれとも判断できない場合」を含むものであって,権限行使が必要であるにもかかわらず,行使しないという過誤(第二種の過誤)を回避する考え方である。下山憲治教授は,原発についても第二種の過誤を回避する考え方が妥当することを前提として,司法審査における具体的な基準を提案している(前掲「行政上の予測とその法的制御の一側面」79頁)。

[24] 日本エネルギー法研究所「諸外国における原子力発電所の安全規制に係る法制度‐平成22・23年度原子力行政に係る法的問題研究班研究報告書‐」4~5頁

[25] 日本エネルギー法研究所「諸外国における原子力発電所の安全規制に係る法制度‐平成22・23年度原子力行政に係る法的問題研究班研究報告書‐」10,20~21頁

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 3 規制委員会の上記「考え方」が,今日における科学的知見にも反すること

(1) 原子力技術の観点より‐限定的な意味での「絶対的安全性」であれば達成されるべきであり、達成も可能であること

また,「考え方」によれば,絶対に災害発生の危険がないという「絶対的な安全性」というものは,達成することも要求することもできないとされている。この点,「いかなる軽微な事故も絶対に起こらない」という意味での絶対的安全性,いわゆるゼロリスクについては,達成不可能であり,要求も困難であろう。

しかし,例えば,鉄道を高架化することで「踏切死亡事故」を絶対に起こさないようにする,という限定的な意味であれば絶対的安全性は達成可能であるし,実社会で現に要求されてもいる。また,福島第一原発事故発生当時にNRC委員長であったグレゴリー・ヤツコ氏は,現在の原子力発電所について,「バッド・デザインである」と述べている[26]。つまり,本来であれば限定的絶対的安全性が確保されるようなグッド・デザインが採用されるべきであるが,現状としてそのような設計ができないということであり,少なくとも,福島第一原発事故発生当時にNRC委員長であった同氏がそのようなレベルの安全性を志向しているということは,極めて興味深い事実である。

[26] 佐藤暁「ヤツコ元NRC委員長との対話から:原子力発電の将来‐『バッド・デザイン』と一蹴するヤツコ氏の真意」(「科学」2015年4月号)

(2) 地震学の観点より‐科学の不確実性と管理可能性

上記「考え方の要旨」2によれば,原子力規制委員会の考える「相対的安全性」とは,①その危険性が社会通念上容認できる水準以下であるか,②その危険性の相当程度が人間によって管理できると考えられる場合に,その危険性の程度と科学技術の利用により得られる利益の大きさとを比較衡量した上で,これを一応安全として利用することであるという。

しかし,②の前提については,前記のとおり地震を含む地球物理科学には非常に大きな不確実性が存在するため(纐纈一起教授の地震学の三重苦を想起されたい。),「②危険性の相当程度が人間によって管理できる」状況にあるとは到底考えられない。
②のような前提を持ち出すこと自体,科学の不確実性に対する謙虚さが全く見られないというほかない。

このことは,名古屋高裁金沢支部に係属する同種訴訟(同支部平成26年(ネ)第126号)において行われた島崎邦彦氏の証人尋問からも明らかにされた。以下、証言内容の主な点を再掲する。

  1. 入倉・三宅式は,地震発生後に震源インバージョン等により解析された断層面積を当てはめればおおよそ妥当な結果を得られるが,地震発生前に確認できる活断層の長さを当てはめると地震動の大幅な過小評価となり,入倉・三宅式を基準地震動の算定に用いた原発では基準地震動が過小に算定されていること
  2. このように,本件原発(近代的観測手法が導入されて以来、大規模な地震が近傍で発生しておらず、「事前に」データを入手しにくい)につき入倉・三宅式を用いて基準地震動を算定すると過小評価になること自体は,島崎氏のみが主張していることではなく,東京大学の纐纈一起教授や三宅弘恵教授の見解からも示されていること
  3. 地震本部が2016年12月9日に行ったレシピの改訂によっても,過去の地震記録のない本件原発において入倉・三宅式を用いて基準地震動を推定する手法は事実上否定されており,この点で基準地震動の審査は不十分で,「最新の研究成果を考慮」するとした審査ガイドにも反した欠陥があること


 4 原子力規制委員会が各分野について最新の専門的知見を有するという前提を欠くこと

さらに、原子力規制委員会の構成が違法であることは「第2」で述べた通りであるが,これに加え、原子力規制委員会が安全確保に関する各専門分野の学識経験者等を擁するという事実も存在しない。例えば,火山事象に関しては,原子力規制委員会が専門的知見を有するとは到底思われず,現に,川内原発の運転差止について判断した福岡高裁宮崎支部決定も,火山に関する規制委員会の見解が不合理であると指摘した(詳細は「第11」で述べる)。地震現象に関しても,島崎邦彦前原子力規制委員会委員長代理が指摘した「入倉・三宅式問題」の検討において,原子力規制委員会が事務方である原子力規制庁からの意見や提案を検証することすらできないという実態が明らかになっている。

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