2018年(平成30年)3月23日
原告第47準備書面
―1026年の万寿津波と大飯原発の危険性―
目 次(←第47準備書面の目次に戻ります)
1 文書に現れた万寿津波
2 万寿津波の発掘調査
3 大規模な海底斜面崩壊による津波の可能性
4 万寿津波のメカニズムについて
1 文書に現れた万寿津波
本訴訟において、被告関西電力は、平成27(2015)年1月22日付準備書面(2)[12 MB]を陳述した。主に津波に関して論じているが、そこには、「本件発電所における主要な建屋の敷地高さ(東京湾平均海面(T.P.)+9.3m以上)等を踏まえ、津波が本件発電所の安全性に影響を及ぼすことがないと判断した。」と記載されている。
これに関して、島根県技術士会の平成23年度と24年度の研究報告書には、1026年の万寿津波で20mを超える津波が島根県の益田周辺を襲ったと記載されている。仮に、そこに記載されている文献記録の信頼性が高いものであれば、海・陸プレート境界から遠い日本海沿岸西南部においても20mを超える津波が襲ったということになり、被告関西電力の主張の信用性はなくなる。
そこで、竹本教授は、万寿津波の研究を行い、論文を作成したものである。以下論じる。
1951年発行の「日本地震史料」(武者金吉著)には、1026年の万寿津波の記載はない。しかし、1981年発行の「新収日本地震史料第1巻」(宇佐美龍夫編)には、39~46頁にわたり、「万寿3年5月23日(1026年4月18日)石見」として、石見地方の万寿津波の資料が掲載されている。但し、そこには地震の被害は記載されていない。2003年発行の「最新版日本被害地震総覧」(宇佐美龍夫、東京大学出版会)によれば、「1026VI16(万寿3∨23)亥の下刻石見(現益田市)高津川河口沖にあった鴨島が大波(あるいは大海哮)によって崩され、海中に没したという。波は川沿いに16km上流に達したという。被害は50km以上東の黒松(現江津市黒松町)にまで及んだ。口碑(こうひ)及び信頼性の低い史料による。そのうえ、これら口碑及び史料に『地震』という語は見いだせない。」と書かれている。口碑や信頼性の低い史料に残されている万寿津波が現実にあったとしても、通常の海底断層の動きによる地震の際の津波ではなく、別のメカニズムを考えなければならない。
1026年の万寿津波で島根県石見地方が大きな津波に襲われたという文書記録のあることは、加藤芳郎によっても指摘されている。それらの文献を読むと、原典は、正徹(しょうてつ)物語(ものがたり)、石見八重葎(むぐら)、横田物語、安田村発展史などであるという。益田地方は、万葉の歌人、柿本人麻呂の生誕地でもあり、終焉の地でもある。彼を祀った人丸寺のあった高角山(別名鴨山)があった鴨島が、この万寿の津波によって流失したとの伝承から、地元の人々は皆、万寿の大津波にことのほか関心を持っているという。鴨島には、神亀(じんき)年間(724~729年)に、聖武天皇の勅命によって人麻呂神社とその別当寺「人丸寺」が建立されたとされている。1026年の万寿津波によって、鴨島は海中に没し、現在「大瀬」と呼ばれている暗礁が水没した鴨島の跡だと考えられている。
1026年の万寿津波に関する文献記録で一番古いのが室町時代中頃の「正徹物語」である(1448~1450年頃)。正徹物語では、「大雨が降ったときに辺り一面海となって人麻呂像が流された。洪水で流出した人麻呂の木像が流れ着いたところに堂を建立した」と書かれているだけで、その事件の年代は書かれていないし、木像の行方も定かではないという。
はっきり万寿津波の年代を特定した文献としては、江戸時代の享保年間(1716~1736年)に書かれた「沢江家文書」が最初である(この文書は安田村発展史に記載されている)。そこでは、「1026(万寿3)年5月23日に起こった事件」との記載がある。
ここで、竹本教授は、上記文献に現れた津波に関し、現地調査を行った都司嘉宣と加藤健二の「万寿石見津波の浸水高の現地調査、鴨島学術調査最終報告書」を紹介している。
甲429号証の7頁では、表1において、15の地点を紹介しているが、ここでは、都司教授らにより津波高が特定された9地点を示す。
表1
地点名 | 所在地 | 津波の伝承 | 伝承の出典 | 津波の高さ |
持石 | 益田市高津町持石、星日神社 | 神石が流された | 石見八重葎 | 18m |
松崎 | 益田市高津町 | 人麻呂の木像が流れ着いた | 正徹物語 | 23m |
安富 | 益田市安富町 | 津波が到達した | 柿本人麻呂と鴨山 | 16.2m以上 |
護宝寺 | 益田市横田町寺垣内 | 護宝寺が流された | 石見八重葎 | 22m |
船ケ溢 | 益田市横田町市原 | 船が漂着した | 横田物語 | 21m |
遠田八幡宮 | 益田市遠田町中遠田 | 社殿が流された | 安田村発展史 | 8m |
砂丘を乗り越えた | 10~12m | |||
貝崎 | 益田市遠田町中遠田 | 水田に津波が到達した | 同上 | 22m |
黒石 | 同上 | 海岸から運ばれた巨岩 | 25m | |
二艘船 | 益田市木部町 | 2艘の船が打ちあげられた | 柿本人麻呂と鴨山 | 12.2m |
2 万寿津波の発掘調査
(1)概要
益田市には、古くから語り継がれてきた柿本人麻呂に関わる伝承がある。それは、人麻呂が益田の鴨島で没し、同人を奉る神社があったとされる鴨島が万寿3(1026)年の大津波によって水没したというものである。万寿津波に関する伝承に、益田市中須地区の海岸付近には五福寺と呼ばれる「福」の字が付く5つの寺(専福寺・安福寺・福王寺・妙福寺・蔵福寺)が建立されていたが、万寿津波によってことごとく破壊されたという言い伝えが残されている。
鴨島伝承総合学術調査団のなかで、中田・高らは、万寿津波の存否を明らかにするためには、津波堆積物の詳細な研究が必要であると考え、益田市で、津波堆積物のトレンチ(試掘杭)発掘調査を実施した。同人らは、まず、鴨島が水没した後の暗礁と考えられる大瀬に近い益田市中須地区及び大塚地区を中心に、11箇所で予察トレンチ調査を行った後、中須の浜崎集落の安福寺跡付近で2本の本トレンチを掘削した。第1トレンチの規模は、東西およそ7m、南北12m、深さ3mである。第2トレンチは、第1トレンチの東隣に、中央部に長さ5m、幅3m、高さ1.5mの島状の高まりの部分を残すように回廊状にトレンチを掘削したということである。
(2)第1トレンチの地質構造
上記のような掘削調査の結果、第1トレンチ西壁の地質構造は、壁面全体が未固結の沖積層よりなるが、トレンチ下底部は直径15cm以下の円礫よりなる河成礫層があり、その真上を厚さ20cmほどの多量の木片を含むシルト交じりの細―中砂層が覆っている。この上部には、厚さ約1.5mの砂層があり、水性植物の根や多くの小木片が含まれている。この砂層は、小礫を中心とする厚さ10cm程度の礫層を挟在しているが、地表下約2mにある礫層には、弥生早―前期の土器片が含まれており、この層は、約2300年前のものと考えられる。
甲429号証[3 MB]10頁の図5では、地表下2.3mまでの第1トレンチ西壁の地質構造図が描かれている。
図5 【図省略】
標高23.9cm付近に津波堆積層と記載されているが、その下の泥が砂に突然覆われた場合に生じる火炎状構造(フレームストラクチャー)が見られる。この火炎状の構造を示す泥層の最上部の腐食土層を広島大学地理学教室放射性炭素年代測定室で年代測定をしたところ、930±80年という結果が得られたという。これは1950年代の測定結果であることから、まさに万寿3(1026)年に対応し、トレンチ壁面で認められた擾乱(じょうらん)層が、万寿津波の堆積物によって形成された可能性が極めて高い。
3 大規模な海底斜面崩壊による津波の可能性
以上のように、1026年の万寿津波に関しては、20mを超える津波が島根県の益田市周辺の地域を襲ったという文書記録が残されているが、地震の被害はほとんど記録に残されていない。中田ほかが1995年に発表した論文では、益田市で津波堆積物のトレンチ発掘調査を実施した結果によれば、1026年に万寿津波があったことは間違いないが、津波堆積物が発見された範囲は狭く、海岸線から2km遡上した程度であった。万寿津波の資料の特徴をまとめると次の通りとなる。
- この津波の際の地震の被害は報告されていない。
- 海岸線(河口)から10kmほどさかのぼった、標高が20mを超える地点にも津波が到来した痕跡がある
- トレンチ発掘調査の結果によれば、津波堆積物が遡上した範囲は、海岸線から2kmの範囲である
竹本教授の論文(甲429[3 MB])では、上記①~③を矛盾なく説明するため、産総研の岡村が指摘した海底の堆積性斜面崩壊による津波の可能性を検討している。
産総研の活断層・地震研究センターでは、測線間隔は2マイル(約3.7km)以下で、大陸棚から大陸斜面までをカバーする「20万分の1海洋地質図」を出版している。そこでは、「海域の活断層評価のために、エアガンを音源とするシングルチャンネル音波探査及びマルチチャンネル音波探査で沿岸海域の活断層分布を調べている」という。そして、日本海西部の地質構造として、「東西方向及び北西―南東方向の横ずれ断層」が卓越するが、「累積縦ずれ変位は小さい」という特徴を見出しているほか、堆積性斜面の崩壊についても調べている。
甲429[3 MB]の12~13頁の図7及び図8は、岡村による「日本海の津波波源」からの引用であるが、図7には、日本海西南部のマルチチャンネル音波探査で、大規模斜面崩落が見つかった若狭湾沖、鳥取沖及び島根沖の海底地盤構造が例示されている。
図7 (堆積性斜面の崩壊) 【図省略】
さらに図8には、日本海西南部で斜面崩壊が発生している斜面として、島根沖、若狭湾沖及び能登半島西部が具体的に楕円形で示されている。竹本論文では、この図の中で、益田市から北北西に約110~150km離れた島根沖で、斜面崩壊が発生している場所に注目している。その楕円の東西方向の広がりは、隠岐半島の西から朝鮮半島の東側に至る約260kmの広大なものである。また、南北方向については、益田沖からその楕円の南端まで水深200m以下の大陸棚が続くが、そこから日本海は急速に深くなり、斜面崩壊が発生している場所の北側の境界(益田から約150km)の辺りの水深は約1000mにもなる。さらに益田から北方に約200km離れると、水深は2000mに達し、その先には水深約2000~2200mの対馬海盆になる。
図8 (斜面崩壊が発生している斜面) 【図省略】
図9では、海上保安庁水路部(現・海洋情報部)の海底地形図のうち、No.6314「西南日本」を参考にし、図8に示される日本海西南部で斜面崩壊が発生している斜面の中から、島根沖の海域のみの海底地形図を作成し図示している。
図9 【図省略】
竹本論文の考察は、図8に楕円形で示されている島根沖の海底堆積性斜面の崩壊は、全域が一度に崩壊したのではなく、その楕円形の中で、部分的に様々な年代に多数の崩壊があり、それらを合わせたものが現代の海底地形を形作っているとする。そして、それらの中で、最も新しい斜面崩壊が1026年の万寿津波を引き起こしたとする。
また、竹本論文では、1026年の万寿津波に関し、津波の被害が島根県益田地方に集中していることに注目している。図9の益田市から対馬海盆に向かうN20°W方向の赤線に沿って、(←→)で示した東西約50kmの範囲が1026年の斜面崩壊に関与していたと考えることにより説明できるとする。即ち、島根沖の海底斜面崩壊が発生している水深の急変帯が、益田地方を焦点とする凹レンズのような形をしており、それによる波動伝播のフォーカシング効果のために、1026年の万寿津波では、益田地方に津波被害が集中したと考えられるとする。この点は次に述べる。
4 万寿津波のメカニズムについて
(1)海底地形から見た考察(図10)
甲429号証の10頁では、図10で、図9において赤線で示した益田市からN20°W方向に向かう方向の、島根沖から対馬海盆までの水深と距離の関係を示している。
図10 (益田からN20°W方向に測った距離) 【図省略】
まず、益田市の海岸から18km進むと水深は約100mになる。距離128kmでは水深200m、137kmでは水深300m、このあたりから海底面は急速に下がり、140kmでは水深400m、141kmでは水深500m、142kmでは水深600m、143kmでは水深700mになる。更に、距離150kmでは水深約1000m、164kmでは水深1500m、200kmで約2000mとなり、そこから先は、水深2000~2200m程度の対馬海盆へ続いている。
この図は、現在の水深(海底地形)を示したものであるが、1026年の大崩壊よりも前は、水深がもっと浅いところにあり、それが大崩壊によって土砂が深みに流れ落ちた結果、現在の水深になったと考えられるとしている。
その理由として、竹本論文は、1026年の大崩壊は、大陸棚が終わる益田から距離128kmの水深200mの辺りから始まり、水深300mのところで30m、水深400mのところで50m、水深500mのところで60m、水深600mのところで50mの土砂が北側急斜面に滑り落ちたと考察している。そして、益田からの距離が約143kmの水深700mの辺りで、上から落ちてくる土砂と、更に下まで落ちていく土砂がバランスしていて、現在の水深とほぼ同じになったと考察している。そこは、水深200mの場所よりも約15km北に離れた場所である。そして、水深700mよりも深いところでは新たな崩壊は起こらず、上から落ちてくる土砂が堆積することにより、水深が浅くなったとしている。
(2)図11の考察
図11 (益田からN20°Wに向かった距離) 【図省略】
更に、甲429[3 MB]の15頁では、図11(A)と図11(B)の説明をしている。図11(A)は、益田から128~160kmの範囲、つまり水深200~1300mの範囲内で、青線が現在の水深、赤線が大崩壊以前の推定水深を示している。図11(B)は、赤線と青線の差をとった斜面崩壊前後の海底面の相対的な変化の様子を模式的に示している。益田から128~143kmの距離では、斜面崩壊により土砂が北側の深みに流れ落ちたため、水位は低下し、水平距離が143kmよりも遠いところでは、崩壊した土砂が堆積して水位が上がる。これを差し引きすると、大きな津波が益田市を襲ったことを次のように説明できるとしている。
まず、益田からほぼ北方に距離128~143kmの範囲の海底堆積物が斜面崩壊により北側に流れ落ち、この部分の水深が急激に低下した。その結果、周囲から海水がこの領域に押し寄せたため、益田付近の津波第1波は引き波になったと考えられる。その後、北方に流れ落ちた土砂が堆積し、この部分の水深が浅くなったために、海水が周囲に流れ、押し波が周囲に伝わった。図11(B)では、そのタイミングの図を示しているが、斜面崩壊で水位が低下した青色の領域に、北側の土砂が積もって水位が上昇した黄色の領域から海水が押し寄せたため、結果として南側に大きな押し波の津波が伝わったという構造である。
このことについては、前述した1998年のパプアニューギニアの地震・津波の際に、海底地すべりによって引き起こされた津波の説明が参考になる。
次に、津波の被害が島根県益田地方に集中していることに関しては、波動現象のフォーカシング効果のためと思われる。
図面A 【図省略】
すなわち、前掲の図9において、益田市から対馬海盆に向かうN20°W方向の赤線に沿って、(←→)で示した東西約50kmの範囲の、海深が200mより深い領域では、益田地方を焦点とする凹レンズのような形をしている。前掲の図3で示したパプア・ニューギニア沖の津波のように、海底斜面崩壊がこの範囲で起きると、図11(B)の青色で示した範囲が最初に沈降し、そこに海水が引き込まれるため、島根県側の最初の津波は引き波となる。次に、この斜面崩壊で崩れた土砂がより深いところ(島根県から見れば遠い方向)に滑り落ちていくと、この部分にたまる土砂のために、海底面は浅くなり、図11(B)の黄色で示した領域の海水面が上昇し、島根県側には押し波となる。このとき、益田地方を焦点とする凹レンズ型の海底地形構造が影響し、津波は四方に同じ高さで伝播せず、凹レンズのフォーカシング効果によって、益田地方に集中して高い津波が襲ったと理解されるのである。つまり、図11(B)は、上記図面Aの赤線に沿った軸方向の海水面の高さを示しているが、沈降域(青色)と上昇域(黄色)は、空間的には、図面Aのように分布していると言える。
竹本論文では、1026年の島根沖斜面崩壊が、図9の益田市から対馬海盆に向かうN20°W方向の赤線と直向する方向に←→で示した約50kmの範囲で、奥行約15kmの範囲で起こり、滑落した土砂の厚さの平均が20m弱としている。つまり、斜面崩壊で滑り落ちた固体堆積物は、50×15×0.02=15.程度の体積である。この程度の斜面崩壊なら、過去の海底地すべりの実測値から考えても、一度に起きることは不合理ではないとする。
(3)津波と堆積物の遡上距離との関係について
万寿津波の調査では、益田地域の津波到来の伝承は、河口から10km遡った標高20~25mの地点に残されており、都司・加藤論文では、現地調査の結果、標高20mを超える地点まで津波が到達した可能性は否定できないと述べている。一方で、中田外の論文では、津波堆積物は海岸線から2km程度の範囲しか認められないと結論付けている。
この差について、菅原論文では、2011年東北地方太平洋沖地震の際に、津波侵入距離が海岸から4~5kmであったところで、砂質堆積物の分布距離はその60~70%に過ぎなかったと述べている。
竹本論文では、このように陸上の津波侵入距離と津波堆積物の分布距離の関係は、必ずしも一致しないと結論付けることも可能とする。更に、通常の津波は、巨大地震の上下方向の断層運動によって引き起こされ、断層破壊は数秒のうちに終わり、津波の波源は数秒の内に形成されるが、海底堆積性斜面の崩壊の場合には、津波波源の形成速度は段違いに遅く(長く)、「分」から「時間」の単位で形成されると考えられるとする。その差が津波堆積物の遡上距離に関連している可能性があるとする。このように、竹本論文では、1026年の万寿津波が通常の津波のように巨大地震の上下方向の断層運動によるものではなく、海底堆積性斜面の崩壊によって引き起こされた津波であると考えれば、大筋の説明が可能であるとする。