◆ 原告第12準備書面
第2 避難状況・コミュニティの崩壊・格差等

原告第12準備書面
-福島第一原発事故による汚染状況等 目次

第2 避難状況・コミュニティの崩壊・格差等

 1 福島原発における被害の実態

  (1)福島の人々の事故前の平穏な暮らし

   ア 福島の人々は、豊かな自然の恵みを享受する生活を有していた。

福島県は,東部の阿武隈高地,中央部を南北に縦断する奥羽山脈,北部から西部に連なる飯豊連峰・越後山脈といった山岳地帯を擁し,それらにより,太平洋と阿武隈高地に挟まれた浜通り,阿武隈高地と奥羽山脈に挟まれた中通り,奥羽山脈と越後山脈に挟まれた会津の3地域に分けられていた。それぞれの特性のある豊かな自然の恵みを享受する生活環境にあった。
浜通り地方の人々は,阿武隈高地と太平洋に面した地域で,阿武隈高地を源として太平洋にそそぐ河川,集落はこれら流域全体に沿って発達し,阿武隈高地では山の恵み太平洋に面した温暖な平地では,豊かな海の恵みを受け,自然と共生したくらしを営んでいた。
中通り地方の人々は,奥羽山脈と阿武隈高地に挟まれた盆地に,福島市,郡山市,白河市のような都市がある。福島盆地は桃,梨,リンゴ,ブドウ,サクランボの果物の産地であり、郡山盆地では稲作が盛んであった。会津地方は奥羽山脈と越後山脈の間の地域で,磐梯山,猪苗代湖や尾瀬に代表される美しい自然に恵まれており,人々は主に会津盆地や,阿賀野川水系の河川流域に沿った低平地に農村集落を形成してきた。会津地方は積雪が多いことから建築形態や屋敷林にも工夫が見られる等,美しくも厳しい自然の中で独特な豊かな生活が育まれていた。
また、福島県の森林の面積は県全体の約7割を占めており(全国で4番目の広さ)となるこの広い森林を活用して,木材のほか,キノコや山菜などが生産されていた。
各地方の自然条件を生かして農作物が生産され,米をはじめ,サヤインゲン,キュウリ,トマトなどの野菜や,モモ,ナシ,リンゴなどの果物は,全国的に見ても上位の生産量を誇り,それらの農作物は他県に出荷されるだけでなく,地元で生産したものを地元で消費する「地産地消」も積極的に取り組まれていた。
福島県の海は,南からの黒潮と北からの親潮がぶつかりあう潮目になっているため,良い漁場に恵まれており,カツオやタコ,ヒラメなど100種類を超える魚介類が水揚げされていた。いわき市周辺では,サンマやカツオ,マグロなどをとる沖合漁業が,相双地方では,ヒラメやカレイなどをとる沿岸漁業がさかんに行われていた。そのような豊かな自然環境のもと,原告らを含めその地域で暮らす人々はみな,日頃から,自宅の庭等を利用した自家菜園で野菜などを栽培し,趣味として近くの川や海へ出かけては魚を釣り,山に入っては季節ごとにキノコや山菜などの山の幸を採り,またそれらの収穫物を近所の人とお互いにお裾分けするなどして,自然の恵みを享受する楽しみを分かち合い,生活していたのである。またそれぞれが,山登りや海水浴,川遊びなど自然との触れあいを趣味の一つとして生活していた。このように豊かな自然の存在は,その生活を支える根幹をなすものであり,かけがえのない基盤であった。

   イ 家族,地域に住む住民との密接な結びつき

福島の人々は,自然豊かな環境を基盤として,家族関係や,地域に住む住民との密接な人間関係を築いていた。
各家庭によってその生活は異なるものの,祖父母や親が,子や孫へ自家製の米や野菜を食べさせたり,県外に住む子が孫を連れて実家に帰省して自然溢れる環境で伸び伸びと遊ばせ,孫の成長を見られる祖父母がその訪問を何よりの楽しみとするなど,自然豊かな地域での生活は家族関係の基盤ともなっていた。また,その地域で採れた農作物や山の幸,海の幸を地域住民の間で分け合うなどして交流を深め,親戚同然の付き合いを続けるなど,より密接な関係を築いていた。
豊かな自然のもとで,その地域特有の歴史や伝統文化も悠々と受け継がれており,毎年,繰り返されてきた行事を守っていくため,地域で暮らす老若男女が集い,団結し,親交を深めていた。
家族関係や親しい地域の人間関係は,これまでの人生の中で構築してきたものであり,その人らしい生活を営むためのかけがえのない基盤であった。
そして、福島原発事故によって福島の人々は多くの人が避難を余儀なくされ、これらの生活をことごとく奪われてしまったのである。

  (2) 福島原発事故による避難の状況

   ア 避難指示区域等からの避難者数は、平成25年3月時点で約10.9万人であった。

同事故の発生以降、市町村は、国の指示に基づき、同原発から20㎞以内の地域を警戒区域に事故発生から1年の期間内に積算線量が20ミリシーベルトに達するおそれがある地域を計画的避難区域に設定してきた。避難指示区域等からの避難者数は、平成25年3月時点で約10.9万人となっている。福島県全体で見ると避難者数は、全体で約15.4万人に登り、福島県内への避難者数は約9.7万人、県外への避難者数は約5.7万人となっている。
このような中で、富岡町、双葉町など警戒区域に位置していた自治体は、県内外に自治体機能自体を移すという事態にまで至った(環境白書平成25年度版より)

   イ 現在(平成26年11月時点)もなお福島県全体で約12万人もの避難生活を続けている。

そのうち、福島県内への避難者数は、約7.4万人(7万4377人・平成26年11月17日現在)福島県外の避難者数は、4万6070人(約4.6万人・平成26年11月13日時点)となっている(福島県 避難者支援課ホームページより)。平成23年3月11日事故後、3年以上、4年近くが推移しようとしている時期に福島県のみの避難者だけでも約12万人もの人々が今なお事故前の住居に戻ることができず、避難生活を余儀なくされている。

   ウ 避難生活者の状況・意識の概要(平成26年4月28日福島県生活環境部による「避難者意向調査結果」より)

福島県が県内・県外への避難者中62,812世帯(有効発信数:5万8627人)に対し、アンケートを行った(調査期間:平成26年1月22日~2月6日)。回答数20,680世帯( 有効発信数に対する回 収 率:35.3%)。
この結果から、事故後3年近く経過した状況における避難生活者の状況・意識の特徴の一端が伺われる。
この調査によれば避難状況としては、半数近くの世帯(48.9%)が2カ所以上に分散して生活している。
4分の3以上の世帯(77.4%)が、避難先へ住民票を移していない。
「2.住まいの状況」によれば、 避難者の約7割(69.0%)が仮設・借上住宅等に居住しているのみであり、その他の避難者も知人宅や親戚宅(9.8%)あり、何らかの持ち家は約9.8%であるが、持ち家でない避難者は、9割にのぼる。
「3.健康や生活などの状況」によれば、避難してから心身の不調を訴えている同居家族がいる世帯は67.5%、現在の生活での不安や困っていることとして「住まいのこと」(63.4%)、「自分や家族の身体の健康のこと」(63.2%)、「自分や家族の心の健康のこと」(47.8%)、「生活資金のこと」(45.4%)、「放射線の影響のこと」(43.9%)を4割以上の人々が掲げている。このように放射線の影響のこと半数近くの人が今なお心配している。「4.情報提供」で「行政からの希望する情報」については、「東京電力の賠償に関する情報」(67.7%)、「福島県・避難元市町村の復興状況」(56.7%)、「除染に関する情報(50.7%)」、「放射線に関する情報」(49.5%)の順となっている。「今後の意向」の回答と関連して「被災当時と同じ市町村に戻る条件」が「放射線の影響や不安が少なくなる」(40.9%)、「原子力発電所事故の今後について不安がなくなる」(31.7%)、「地域の除染が終了する」(27.3%)となっており、放射線の影響に対する不安が大きいことがわかる。

  (3)福島原発事故による損害が極めて甚大であること

原発事故による被害の特徴は既に訴状において指摘したように多種・多様であり長期かつ回復困難な点にある。

   ア 福島原発事故により避難を余儀なくされた(未だに余儀なくされている)

人々は、様々な経済的損害(直接損害・間接損害を含む)や避難それ自体による精神的損害を受けており、その損害額自体多額にのぼる。およそ推計できない状況である。
当初政府が試算した額だけでも原発周辺の住民などに対する賠償金や原子炉の冷却費用などを基に5兆8000億円(平成23年12月)と公表されたが、それは平成26年3月時点では、東電による最新の見通しでも11兆1600億円にのぼることが明らかにされた(平成26年3月11日NHKWEBサイトニュース・甲156号証)。
しかし、当初より、政府の試算は甘すぎるとし、以下のような批判がされていた。「1.福島原発事故の損害費用見積もり約5兆5000億円は、10月3日現在明らかになっている東京電力による損害賠償額を参照しているにすぎず、除染費用(※1:環境省は、追加放射線量年間1mSv以上の地域で除染を行うとしており、その除染費用は莫大な額に上ることが予想される。委員提出資料でも、広域除染費用は28兆円と推計されている。)、放射性廃棄物処理等の行政費用、自主避難および汚染地域に残っている人への賠償費用(政府の当初算定には、自主避難者および汚染地域に残っている人への賠償が予定されていなかったが、その後、批判され自主避難者に賠償されることが明らかになった)、晩発性障害への賠償費用等が含まれていないものである。2. 廃炉費用についても、福島第一原子力発電所1~4号機の廃炉費用の追加分として約9,600億円としているが、事故収束・廃炉の見通しも未だ立っていない中で、最低限の見積に過ぎない。」 とし、委員会参考資料に提示されている48兆円をも大きく上回る損害費用が容易に想定されると指摘されていた。また、福島第一原発事故被害の全容はいまだに明らかになっておらず、試算できない社会的・環境的損害をも考慮すれば、48兆円という額でさえ、全体の損害の一部を表しているにすぎない」と批判されてきた( 脱原発・新しいエネルギー政策を実現する会、2011年10月26日声明・甲157号証)。
そして、一つの試算としては、被曝防止措置や晩発性障害なども考慮する朴勝俊(「原子力発電所の過酷事故に伴う被害額の試算」『國民経済雑誌』191巻3号、2005年・甲158号証)によれば、過酷事故の損害費用は平均で62兆円、最悪の場合には279兆円に上るとの試算も示されている。
現に、福島原発事故による被害額は、政府の試算や東電の試算を遙かに超えると思われる被害者らからの訴えが各地・各種の福島原発事故関連裁判の中で明らかになってきている。
本項においては、多種多様な被害の中で、福島地方裁判所において係属している裁判(いわゆる生業訴訟)の中で、訴えられている事実をもとに、個々人の経済的損害(直接損害・間接損害)、個々人の精神的損害以上の被害(強いて言えば、前述の社会的・環境的損害ともいうべき損害)の実相を明らかにしていくものである。

   イ 全国各地において次々に提訴されている福島原発関連訴訟から見る被害の甚大さ

住民における被害の深刻さは、単なる政府の原賠審やADRなど、既存のシステムの中では、賠償され、回復されないものであることは、既に各地裁判所において提訴されている裁判の状況からも明かである。
雑誌「法と民主主義 No.486」(45~48頁以下)において紹介されている全国弁護団連絡会が把握している全国のいわゆる被災者訴訟の状況は、以下のとおりである。
2014年1月26日時点でいわゆる被災者訴訟だけでも15件(福島地裁・福島地裁いわき支部2件、東京地裁、千葉地裁、横浜地裁、札幌地裁、山形地裁、新潟地裁、前橋地裁、名古屋地裁、京都地裁、大阪地裁、神戸地裁)の裁判が係属しており、原告数は、上記調査時点で、福島地裁(1985名)、いわき支部(1754名)、東京地裁(48名)、千葉地裁(47名)、横浜地裁(61名)、札幌地裁(113名)、山形地裁(227名)、新潟地裁(354名)、前橋地裁(94名)、名古屋地裁(73名)、京都地裁(91名)、大阪地裁(120名)、神戸地裁(54名)にものぼっている。これらの原告数は、5021名に達している。そして、原告数は、その後も増加している(法と民主主義№486、45~48頁の一覧表の数字を原告代理人においてまとめたものである)。
そして、その後も前述地裁に追加提訴されただけのみならず、神奈川地裁、岡山地裁、福岡地裁にも新たに提訴されている。
そして、京都地方裁判所においても被災者訴訟係属している(京都地方裁判所第3民事部)。
このように福島第一原発事故による被害は、想像を絶する被害をもたらし、完全賠償・完全なる被害の回復に終わりはない状態である。公害訴訟と同様、もしくは、それ以上の被害の継続性・広汎性・回復不可能な被害を招く原発は、本来稼働されてはならない、存在してはならないものであることを被告国らは、福島第一原発事故の教訓から学ぶべきである。

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  (4)福島原発事故による避難それ自体の被害 

   ア 避難それ自体・避難の態様による被害の実態(国会事故調査報告書より)

福島原発事故における、情報伝達上の問題点や避難手段などにおいて生じた問題等や福島原発事故の「避難の実態の一部」は、既にこれまで指摘してきたところである(第6準備書面47頁~)。
これらに加えて、避難生活自体の困難性や問題点が多々発生した。
以下、国会事故調査報告(「第4部被害状況と被害拡大の要因(その1)甲3号証 ・・・11/23頁」において指摘されている問題点をいくつか記載するが、国会事故調査報告書に現れた被害は、いうまでもなく、多種・多様な被害実態の一部や概要にすぎない。

  (5)「着の身着のまま」での避難

原発事故のことを知らされず正確な情報を知らされないままの避難であったため、避難が長期間及ぶことを知らされずに避難指示が出たため着の身着のままで避難せざるを得なかった(双葉町住民)。そのため、医療関係の書類等がないため両親の症状が悪化した事例(富岡町住民)、貴重品があるにも関わらず、戸締まりもせずに避難したが、一時帰宅の度に家が盗難にあった事例(大熊町住民)が散見された。

  (6)避難区域の拡大と多段階避難

委員会の行ったアンケートによれば、福島原発に近い双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、洋野町、浪江町では、政府が3㎞、10㎞、20㎞と段階的に避難区域を拡大したため、6回以上避難した住民が20%を超えた。6回とまでいかなくても、2012年3月という1年間に多数回、避難場所を転々とし何度も避難を繰り返したという声が多数寄せられた。

  (7)長期屋内退避指示により生活基盤の崩壊

3月15日11時に福島第一原発から20㎞~30㎞圏内に対する屋内退避指示が出されて以降、3月25日に自主避難要請が出されるまで、自主的に避難した人以外の住民は10日間にわたって屋内に退避し続けることになった。なお、3月25日以降も自主避難をしなかった住民は4月22日の屋内退避指示解除まで一か月以上にわたり屋内にとどまった(屋内退避指示の対象:南相馬市、飯舘村、浪江町、葛尾村、田村市、川内村、楢葉町、広野町、いわき市のそれぞれの一部)。
このうち、特に、南相馬市、いわき市、田村市、飯舘村の対象地域では、屋内退避の長期化によって、物流や商業が停滞し、住民の生活基盤が崩壊するという問題が生じた。
屋内退避区域への被災者支援は、結局3月21日頃から開始されたが、物資支援は十分に行き届かなかった。
屋内退避せざるをえず、生活に規制をかけられること自体、被害であるが、それが長期化して被害の拡大をまねいた。
この被害の実態は住民らの生の声となって現れている(20kmから30km圏内の住民、特に南相馬市からアンケート調査の自由回答から)。
たとえば、ある者は「避難をしたくても、認知症の親がいるため避難は出来なかった。避難者は今も精神的苦痛として補償されているが、自宅にいた私達は1回の補償で終り、部落の除染をしたりしているが、精神的苦痛は自宅避難者も同じではないのか。避難した人達はホテル・旅館等に移り、支援物資をもらって1週間に1回自宅に戻り、物資も持って来たようだ。自宅にいた私達は店が閉って購入出来ない。ガソリンも不足して乗れなかった。東電より20km以内はともかく、旧緊急時避難地域の避難出来なかった人達も考慮すべきではないか」と述べている。
また別のある者は「南相馬市原町区馬場在住でしたが、屋内退避とかにはなったが、当時はとても家にいれる状況ではなかった。(町に人はいなくなり、食料もなくなったりして(ガソリンも)、自分たちの判断で避難し、今に至る(避難継続中)。1年たって、今ごろになり、本当の原発の状況をマスコミ等で聞かされても、悔しい限りです!!警戒区域になった人たちの方が、いろいろされていて、原町の人は本当につらかったと思う!!」と述べている。

  (8)危険か否かの判断を住民に委ねた「自主避難」(国会事故調査報告書表記による)

正確な情報、放射能被害・汚染状況に関する正しい情報が得られないところで、多くの被災者が「自主避難」と称される苦渋の選択をせまられた。
住民アンケートである者(南相馬市(20kmから30km圏内)の住民)は「自主避難というかたちにするべきなのか、どこへと難しい選択でした。また原発の事故の後は“外には出るな”“窓は開けるな”とのことでしたので、市の広報車が半日に1回程度巡回していましたが、ぜんぜん聞き取ることはできませんでした。私どもは市街地でしたので、どこからの話もなく、市外の親戚者から、区長より自主避難との話があったとのことを聞きました。(中略)NHK放送にての原発の事故に東電幹部の方々の責任を感じない姿勢に非常に悲しく思いました。利用年数を越えて使用していたことが大きな原因ではなかったのではないでしょうか。想定外などありえません。一番の思いは子供達のことです」と述べ、
ある者(川内村(20kmから30km圏内)の住民)は、「3月11日に事故の第一報を聞いてから、直後、村に多くの方が避難してきました。若い人たちはケータイで、チェーンメールのように『逃げろ』と連絡しあっていました。でも、正式に避難についての情報は、どこからも入りませんでした。防災無線で屋内退避といわれただけです。警察に家族が勤務している近所の人が、『なんだか危ないから逃げる』というのを聞いて、自主避難しました。14日には、警察はもう川内村を出ていたと聞きます。ボランティアで村内の炊き出しをしていた人は、村内の移動でガソリンを使い果たしていました。少しでも早く逃げるのを助けてほしかったと思います。見殺しにされたという思いが消えません」と述べている。

  (9)汚染区域への避難

また、正確な情報や放射能被害・汚染状況に関する正しい情報が得られないため、汚染区域に避難をさせられた者も多くいた。
アンケートに現れた線量の高い地域に避難した住民の声は次のとおりである。
ある者(浪江町の住民)は、「SPEEDIが公表されず、一番放射線の高い所に避難したことは、一生健康面で脅かされます。なぜ公表しなかったのか、人の命を何と思っているのでしょうか。自宅の方もとても住める状態でなく、インフラの整備、除染など難しく、また中間貯蔵施設が近く、大きな不安を感じます」と語り、
ある者(南相馬市の住民)は「妻は妊娠初期でした。SPEEDIを早く公表してくれていれば、不安がもっと少なくて済んだのにと思います。飯舘の実家→福島、と放射線の比較的高い所へ移動しました。すごく残念」と述べている。

  (10)まとめ

京都被災者訴訟の原告であり、本件原告は現在の避難場所に移るまでの避難の実態について第一回口頭弁論で以下のように意見陳述した。
「(略)福島第一原子力発電所の爆発当時は、川俣町そして、放射線量が最も高く示された福島市に避難しておりました。当時は、なぜ近距離の南相馬市より線量が高いのか解りませんでした。一度戻ろうと思った南相馬市は13日には市の境に川俣町の警察署員などによりバリケードが張られ、入ることができなくなりました。2011年3月13日の夜、福島市飯坂町の小さな市民ホールの避難所には、800人もの人が押し寄せました。地震のたびに携帯電話を手にする人々、消灯後の部屋がぼんやり青白く光ると、夜中なのに大きな荷物をもってせわしなく足早に出ていく人々、入ってくる人々が子供の寝ている頭を踏みそうになります。放射能が多く降り注いだとされる15日には、仮設トイレまで雪をかぶりながら入らなければなりませんでした。毎日毎日来る日も来る日も外で遊べない子供たち。ボランティアの人に風船をもらった子供たちは次々に飛び跳ねては上手にパスしあいます。足元には、体を横たえている大人が数人いました。わたしは、一番年長の娘に今すぐやめるよう強く言いました。辛抱強い娘はこどもたちにそれぞれ家族のもとへ戻るよう告げると、声を殺して泣きました。明け方のトイレには、壁まで糞便を塗りつけた手のあと。苦しそうな模様に見えました。食べるものなどほとんど売っていないスーパーに何時間も並び、列の横に貧血で倒れている老女がいました。インフルエンザが蔓延した近くの避難所では、風呂に入ることができないため、温泉街までペットボトルに温泉水を汲みに行き、湯たんぽの代わりにして暖をとる人がいました。ガソリンを入れるのに長時間並び、ガソリンを消費して帰ってきました。より遠くへは避難できない人がたくさんいました。隣のスペースに、孫にかかえられて避難してきた年老いた人は、硬い床に座っていることがつらくて、物資の届かない南相馬市へ帰っていきました。テレビで次々に爆発していく福島第一原子力発電所のを避難所の人たちが囲んで観ている。毎日が重く張り詰めた空気の中、死を覚悟した人も大勢いた避難所の生活は、忘れられません。2011年4月2日、私は娘2人を連れ、京都府災害支援対策本部やたくさんの友人の力を借り、ごみ袋3つに衣服と貴重品をつめて、京都府へと3度目となる避難をしてまいりました。その時に、貴重品以上に大切なものが私たちにはありました。『スクリーニング済証』というものです。これを携帯しなければ、病院に入ることも避難所を移ることもできませんでした。私たちは、被ばくした人間として、移動を制限されていたからです(略)」と3度目の避難先に至るまでの転々と非難したこと、避難それ自体による被害について語った。

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 2 事故前の平穏な生活が破壊されたこと及び家族・地域に住む住民との密接な結びつき(コミュニティ)の崩壊・格差による差別

  (1) 従前の生活の全面的崩壊と変容(豊かな自然の全てが放射能に汚染されたまま放置され,人体への脅威となる放射能汚染物質へと変容した)

   ア 汚染された地域での生活を続ける滞在者の被害

諸般の事情から汚染された地域に滞在せざるをえない人々も多くいる。

  1.  汚染された地域で生活を続ける人々らは,地域を汚染した放射性物質が放つ放射線による外部被ばくと,放射性物質に汚染された食料や水などを体内に摂取することによる内部被ばくの危険にさらされ続けることとなった。
  2.  1日3食の食卓に並ぶ食材に放射性物質が含まれていないか,家族・知人からもらった食材は汚染されていないのか,今飲んでいる水は汚染されていないか,通学,通勤,買い物などを含む外出時に外部被ばくするのではないか,外出時に何気なく触れた土や草木に放射性物質が付着していたいのではないか,その放射性物質が身体に付着してしまったのではないか,風で巻き上がった塵とともに口から放射性物質を吸い込んでしまったのではないか,雨や雪を被ったことでさらなる被ばくをしたのではないか,自宅内で生活しているときや就寝している最中も自宅の壁や屋根に付着した及び自宅周辺に存在する放射性物質からの放射線によって被ばくしているのではないか等,日々の生活のすべての面において,「放射性物質による地域汚染と放射線被ばく」による「現在及び将来の健康影響への強い不安・懸念」を抱かざるを得ないこととなった。
  3.  放射能汚染の不安のため人々は,常に安心して生活することができなくなり,そのような不安を少しでも軽減するために,各人の判断で出来る限りの放射線防護対策をとらざるを得なくなった。
    自家菜園での栽培を止め,あるいはそこで採れた農作物を子供や孫へ与えることを止めるようになった。趣味としていた釣り,キノコや山菜などの採取も出来なくなった。またそれらの収穫物を近所の人と互いに分け合うこともためらわれ,控えるようになってしまった。山登りや海水浴,川遊びなど自然と触れあうことも避けるようになった。
    身近に親しんできた自然全てが失われてしまったのである。
  4.  特に放射線被ばくによる健康影響のおそれが大きい子どもに対しては,外遊びを極力避けるようにし,外出時にはマスクを付けさせ,周囲の草花,虫,降り積もった雪に触れることも注意して止めさせた親も多い。また,布団や洗濯物を外に干すことを避けたり,地元産の食材を食べさせることに不安を感じてその購入を避けたり,井戸水や水道水を飲ませずに市販の飲料水を購入するようになった。
  5.  県外に住んでいた子や孫は,今までのような里帰り時の安心した家族間の交流は出来なくなった。汚染された故郷となってしまったために、子や孫の里帰りが何よりも楽しみとしてきた,子や孫とゆっくりと会い,その成長を見るという機会そのものが奪われてしまっている。将来的には息子家族と同居したいという望みも完全に絶たれてしまった(生業訴訟原告H)。このように家族関係にも大きな変容が生じている。
  6.  家族間に限らず,職場における人間関係においても放射能汚染による苦痛が生じている例もある。すなわち,事故直後の線量が高く,その情報も極めて限られていたときには,多くの者が,そのまま滞在するか,避難するかという選択を迫られていた。そのような状況において,障害者らを守るためとはいえ,職員らにその選択を強いてしまったことや,その後の避難等によってそれまで共に施設を支えてきた職員との間に溝が生じてしまった事例もある。
  7.  不十分な除染の中で,その除染した汚染物質を結果的に自宅の庭の一角に仮置き場として置かなければならないこともあり、汚染された地域に過ごしている日々,不安の尽きない生活を強いられている状況にある者もある。
  8.  汚染された地域で生活を続けざるをえない者は,各人の判断に従い、上記のような放射線防護を続けることで健康影響を防げるだろうと信じ,日々の被ばくによる健康不安を心の奥底に押し込めて生活を続けている。しかしながら,いざ自分の子供や孫の甲状腺にのう胞が発見されたり,原因不明の体調不良が生じたりした場合には,それまで押し込めていたはずの放射線被ばくによる健康影響ではないかという不安・恐怖はより増大する。
    そして経済面の被害に加え,成長発達段階にある子どもの運動不足や肥満の進行という被害も新たに生じている。
  9.  最終的には,汚染された土地での生活による不安に耐えられなくなり,県外避難を選択することを余儀なくされ,家族が分断されるというような被害が生じてしまっている。

   イ 汚染された地域で農業を続ける者の被害.

豊かな自然と共存し,その自然そのものを生業としてきた農家(果樹園農家、野菜農家、米作農家、酪農家など形態は様々である。)は,先祖から受け継ぎ,長年自ら耕してきたからこそ,その農地が汚染されたこと自体によって,より大きな喪失感,絶望感,将来への不安という苦痛を被っている。出荷制限によって手塩にかけて育てた農作物の処分を余儀なくされる苦しみ,出荷できても価格の下落や昔からの顧客に敬遠される苦しみは,収入の減少という経済的な損害だけでなく,人に喜ばれる物を作るという農家としての根源である生産意欲そのものを傷つけられるという深刻な被害につながっており,営農そのものを諦めるものも続出している。そして,有効な除染方法もなく汚染されたままの農地での生産を続けなければならないため,日々の作業中の被ばくによる健康不安を感じ,また出荷時に農作物から放射性物質が検出されるかも知れないという不安を感じながら,先の見えない不安を抱えた生活が続いている。
農家にとって,先祖から受け継ぎ,自ら長年耕してきた農地,その農地で育てた農作物,そして農作物を作り続けるという生業,それらは単に財産価値のあるもの,生計の元を得るための仕事というものでなく,農家一人一人がその人生をかけて守り,築き上げてきた生きがいそのものである。そのような生きがいである生業が放射能汚染によって侵害され続けているのである。 生業訴訟の原告の一人の父親は、安全安心な作物をみんなに食べてほしいという思いから有機農法と土作りに取り組み,農薬の集団散布に一人反対するなど,誇りある活動を行ってきたが、その農地が放射能汚染され,丹精込めて作ったキャベツの出荷停止を告げられたことによって,喪失感,絶望感の末に自死をした(生業訴訟原告T)。福島県内で生業生活を営む農家の被り続けている被害(単なる営業損害ないし風評被害だけでなく,放射線被ばくによる健康不安や生業の今後に対する不安なども含めて)が,最も苛烈な形で現れたものといえるが、これは、氷山の一角である。

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   ウ 避難を余儀なくされた者(避難者)の被害

  1.  本件事故による放射能汚染によって避難を余儀なくされたものは,住み慣れた地域での生活はもとより,そこで構築されていた家族関係や親族関係,親交を厚くしていた地域の住民との関係すべてが崩壊させられている。
    避難を余儀なくされた者の経済損害については言うまでもない。
    避難それ自体により仕事を喪失した多くの者がいる。
    京都訴訟の福島県郡山市に住んでいた原告の一人は会社勤務をしながらお好み焼き屋の修行をつみ、脱サラをしてようやくお好み焼き屋を起業して3年目軌道に乗っていた時に、原発事故に遭い、娘の健康を考えて避難を余儀なくされ、営業権まで手放さざるを得なくなった無念を述べている(京都被災者訴訟原告8-1)。地元との結びつきが強いからこそ就けていた派遣会社の労務管理(正社員)で働いてこれていたのに原発事故による避難先では正社員につけず、非正規の不安定な仕事に就かざる得ない事例(京都被災者訴訟原告17-1)など例にことかかない。
    また、避難を余儀なくされることにより、家族ぐるみ避難した者であっても、住宅ローン返済中の家を残したまま、住宅ローン返済と避難先での家賃の支払いなどの負担の増加を余儀なくされている。また、やむを得ず家族のうち一部のみが避難している場合は、二重生活による生活費用の増加を生んでいるだけでなく、面会費用の発生などの負担の増大は生活を大きく圧迫しているが、ここでとりわけて指摘したいのは、住み慣れた従前の生活それ自体とそこで形成されてきたコミュニティを崩壊させられたことである。
  2.  国の避難指示によって避難を強いられた者(区域内避難者)は,皆,着の身着のままの状態での避難を余儀なくされ,正確な情報も与えられなかったため,むしろ線量の高い地域に避難し,より多くの被ばくを強いられた者もいた。
    避難した先での避難所では,段ボールで仕切られたスペースでの生活を強いられ,プライバシーは守られず,物資は不足して下着すら交換することができず,トイレに並び,お風呂にも入れないという悪質な住環境など,およそ人としての生活とはいえない過酷な生活を強いられた。仮設住宅に入居した現在も,狭い部屋で,薄い壁による音漏れ,湿気や結露による床の凹凸やカビが発生し老朽化も進むなど,厳しい住環境での生活を強いられている。
    また,何よりも,強制的な避難によって慣れ親しんだ地域に戻れなくなり,そこで一緒に生活していた家族や,友人なども離ればなれになってしまった。ある者の自分が釣った豊かな自然の恵みである魚を,妻が料理し,家族みんなでその食卓を囲んだり,昔からの顔なじみと毎年開催されるお祭りに出店を開いて参加したりする生活,ある者の朝起きて学校に行き,授業に出て,友達と他愛ない話をして遊び,家に帰ると家族が待っているという生活,ある者の自然溢れる地域で,自ら経営していた飲食店で客が喜んで食べてくれる顔を見たり,常連客との日常会話を楽しんだりする生活,そしてある者の,一緒に暮らす家族,70年来の付き合いがあり親戚のように親しくしていた友人らに囲まれた生活であり,いずれも,その人生を通じて築き手に入れた,何気ない日常に感じる幸せでありそれらはそれぞれが生きていく上で欠くことのできないものであった。
  3.  地域社会における分断・家族の分断・家族関係の変容または崩壊
    土地を離れることを決断した「区域外避難者」は,汚染された地域での生活から逃れることにより,放射線被ばくによる日々の不安からは解放されるものの,「区域内避難者」同様の住み慣れない土地での生活による様々な不安や不便さに加え,避難生活による経済的負担の増加,避難せずに地元での生活を続ける者との間で意見の違いや対立が生じている。
    「区域外避難者」の郡山市の原告の一人は「夫は、勤務先から会社も避難区域外にあるということで避難をとがめられ、度々会社から戻ってくるように言われ、業務命令で郡山市に夫のみ帰らざるを得なかった。戻ってからも肩身の狭い思いをしている夫と離れ、幼い子どもの安全や健康を考えて避難生活をしている苦痛を訴えている(京都訴訟被災者原告26-2)。また、いわき市から避難している原告の一人も地域おこしのため同市に移住して事業を営んでいた者は「福島を捨てた」と扱われ、未だに帰還して事業を再開できない苦痛を訴えている(京都被災者訴訟原告32-2)。

このような放射能被害・汚染状況・健康被害・避難すべきかどうかなどに対する意見の違いや対立が原因となって,家族が離れて暮らすことを余儀なくされ,家族関係そのものに亀裂が生じたりしており、また従前と異なる生活環境の中で家族関係に亀裂や無用なストレスを抱き、離婚にまで至る場合もあるなど家族関係の変容または崩壊という被害が生じている。
たとえば、生業訴訟の原告の一人は、放射線被ばくによって娘や自分の健康に悪い影響が出たり,娘が結婚できなくなるのではないかと不安に感じ,夫の実家のある川俣町から米沢市への避難を選択した。友人や部活のことで避難したくないという娘との意見の対立,避難に反対する夫やその両親との意見の対立による精神的負担を感じながらも,それでも娘の健康を優先したいと考え避難を続けた。そのことで夫やその両親との関係に事故前にはなかった溝が生じることとなってしまったこと。そして,避難をしたからといってすべての健康不安が無くなる訳ではない。日々の放射線被ばくによる不安から解放されるだけであり,避難するまでに被ばくしたことによる将来の健康不安は払拭されない。避難をしたある者は,ホールボディカウンターによる検査で娘が被ばくしていることを知り,強い健康不安を感じている。またその娘が友人と「もう子供は産めないね」と話していることを知り,自分の娘にそのような思いをさせてしまったことに心を痛めているとその被害を訴えている(生業訴訟原告新関まゆみ:法と民主主義№486,35頁)。
京都訴訟の原告でありかつ本件訴訟の原告の一人は、本件訴訟の第1回口頭弁論で次のように訴えた。
「私と私の家族は福島第一原子力発電所の事故により、人生が大きく変わってしまいました。
福島県のホームページによると、3月15日に福島市では毎時最大24.24マイクロシーベルトの放射線がでていました。しかしその時私はそれを知りませんでした。最も放射線値が高い時に福島市にいた子供たちがどれだけ初期被曝をしたのかわからず今でも大変心配です。
4月に入り学校の新学期が始まりましたが、福島市の放射線値はまだ平常値の40倍以上もありました。子供たちは、事故前までは学校まで40分かけて自転車通学していましたが、外部被曝、内部被曝を少しでも避けるために車で送り迎えをすることにしました。子供たちは福島の自然豊かな春の息吹を感じながら爽快に自転車をこいで登下校することがかなわなくなりました。学校でも校庭での活動が制限されました。そんな毎日を送るうちに私は福島にとどまり放射性物質の影響を心配したり制限された生活を送るよりも、子供たちが自由に外で活動し、伸び伸びと普通の生活を送ることのできる環境に移るほうが幸せではないかと考えるようになりました。そして家族内で何度も相談した結果避難を決意したのです。子供自身も不安もあっただろうに、新しい環境でもなんとかやっていけるだろうと言って意欲を見せてくれたので、2011年8月に子供二人とともに福島県福島市から京都府に避難してきました。しかし残念ながら子供はここでの生活に適応できていません。こちらの学校の生徒さんたちは皆、3月11日以前となんら変わることのない幸せな生活を送っています。その中で自分一人だけ何もかも環境が変わってしまい、生まれ育った家を離れ、父親と離れ、気心の知れた幼いころからの友人たち、切磋琢磨していた学友たち、熱心に指導してくださっていた先生方…福島でのかけがえのない幸せな生活に別れを告げることとなってしまったのです。原発事故のせいで。親の避難するという判断のせいで。この疎外感と喪失感は子供にとって想像以上に大きかったと思われます。
避難してからの1年11か月の間に子供は無気力になってしまいました。そのいら立ちを私に向けて、息子は言います。「何も楽しいことがなくなった」「目標がなくなった」「自分の人生はおしまいだ」と。そして頻繁に怒りを爆発させ、私との関係は非常に悪いものとなっています。仕事のために福島に残っている夫は、家事や雑事、年老いた親の介護のすべてを一人でこなさなくてはならなくなり、多忙を極めています。そのため子供と電話で話すこともめったにありません。ましてや遠い京都に頻繁に来るわけにもいかず、同居していれば当たり前の父と息子のコミュニケーションが二重生活では成り立たなくなっています。夫の健康もとても心配です。
では福島に帰れば問題は解決するのでしょうか。この2年間に何度も子供と話し合いました。帰ったからと言って3月11日以前と全く同じ環境に戻れるわけではありません。元の学校に入れたとしてもクラスメイトや学習カリキュラムや学習進度は変わります。友人関係も学習もまた一から築き上げなくてはならないのです。精神的に疲れ切った子供が帰る決断をするのは難しいことでした。子供は福島でやり直す気力も失ってしまったのです。一度福島から出てきてしまうと、帰ることも簡単ではないのです。
毎日親子でピリピリと緊張した日々を送りいさかいを繰り返しています。子供の大事な時間はいたずらに過ぎ、親子関係は悪くなり家庭は平和ではなくなってしまいました。(略)放射能汚染によって失われるのは形あるものだけではありません。人の心は病み、人間関係が壊れます。長期間悩み苦しんで不安を持ち続けるのです。(略)」と避難を余儀なくされた生活の中で人間関係の壊れていく悲惨さと苦痛による被害の深刻さを語った。
このようにとりわけ「区域外避難者」は,家族関係のみならず,地域の住民との間でも同様に関係の悪化や,避難に伴い疎遠になって交流が絶たれるなどの変容,崩壊が生じている。
また,住み慣れた土地での生活を失った苦痛を被っているという点では国の避難指示による避難者と共通しており,ある避難者は、自然溢れる飯舘村の自宅や川俣町にある夫の実家で,家族全員での暮らしを,ある者は,慣れ親しんだ吾妻山の風景を眺めながら,ボランティア活動や家庭菜園の手入れをする暮らしを失った苦痛を被っている。

   エ 従前の地域・コミュニティと事業者の被害

事業を従前の土地で営んできた者(商売)は、その地域において築いてきた人間関係の中で事業を育て、確立してきた。

  1.  ある者は、自ら起業し,成人した子どもに手伝ってもらい,家族で協力しながら順調に経営を続けていた自動車整備工場の仕事を失った。子どもたちとは、福島原発事故による避難のため、別々に暮らさざるを得なくなり,自動車整備工場の再開は不可能となった。
  2.  事業者にとってそれぞれの商売は,長年の努力と経験及び地域のコミュニティの中で築き上げてきたものであり,その人それぞれの生きがいである。その生きがいと感じてきた事業を侵害され,奪われたことによる苦痛を被っている。

  (2) 子どもたちが従前環境で生活できなくなったこと自体の被害

子どもたちにとって自然の豊かな環境を奪われたこと自体重大な被害であるが、成長期、学生時代、子どもが同一環境で成長することは、子どもたちの人間形成に重要な意味を持つ。それまでの友人関係や勉学環境を維持したいと考えている子どもたちが、理不尽な理由で従前環境で生活できなくなること自体、被害である。
本件事故による避難を余儀なくされ,いつも一緒に遊び,同級生や学校の先生の噂話,好きな人の話など,何でも話せる存在であった友人らとも離ればなれになってしまう。
前述の本件原告の意見陳述にも、子どもが従前環境で過ごせなくなったことによって子どもに被害が生じていることが述べられている。

 3 被災者間の格差による差別と分断

地域社会は、原発からの距離で、放射線量で、賠償で分断され、津波被災者と原発被災者への対応への違いにより住民に軋轢やゆがみをもたらしている。いわき市内には、県内最多の2万4000人が避難しているが、その市内で「被災者帰れ」の落書きが市役所入り口などに書かれた事件、仮設住宅内の車7台がフロントガラスに割られた事件、仮設住宅に向けたロケット花火売り上げなどの事件が発生している。最近は、公園に設置された放射能測定モニター機が壊されるなどの事件も起こった(生業訴訟原告I)。

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