◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第7 まとめ

出口治男弁護士(京都脱原発弁護団長)

1 私は1970年(昭和45)4月に裁判官に任官しました。当時公害問題が全国で多く噴き出しており、若い弁護士達が全国の公害の現場に入っていきました。水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜん息等の訴訟が次々と提起されていました。私達裁判所に入った若い裁判官も、公害や環境訴訟にいかに取り組むかについて、真剣に議論しました。1977年(昭和52)1月に裁判官懇話会で環境訴訟の問題を取り上げたのはそのひとつの成果でした。ただそのなかで、裁判官が行政や国の政策にかかわる問題を取り上げるとき、選挙の洗礼を経ないたった3人の裁判官が、国の政策を変更するようなことが果たしてできるのか、あるいは原発のような、極めて高度に専門的な問題について、裁判官は判断する能力があるのかということが、深刻な議論になり、憲法と法律及び良心に従って積極的な審理をすべきであるという者と、消極的な姿勢の者とに意見が分かれたことを記憶しています。

2 特に原発のように、高度に専門的な問題について、裁判所はどのようなスタンスで事件に立ち向かうべきか、ということが、司法積極主義に立つ若い裁判官に突きつけられた難問でした。積極的な立場に立つ若い裁判官がそのような裁判の場から排除されていくなかで、この問題について、ひとつの解決の指針を与えたのが、伊方原発の最高裁判決でした。そして、この最高裁判決を解説した調査官の解説が、その後の下級審をリードしていったと思われます。解説のなかで、その調査官は次のように述べています。

すなわち、自動車、飛行機、船等の交通機関、医薬品、電気業界、ガス器具、レントゲン等の医療用の放射能利用等、科学技術を利用した各種の機械、装置等は、絶対に安全というものではなく、常に何等かの程度の事故発生等の危険性を伴っているが、その危険性が社会通念上容認できる水準以下であると考えられる場合に、又はその危険性の相当程度が人間によって管理できると考えられる場合に、その危険性の程度と科学技術の利用により得られる利益の大きさとの比較衡量の上で、これを一応安全なものとして利用しているが、このような相対的安全性の考え方が従来から行われてきた一般的な考え方で、原子炉の安全性についても同様のことが言い得るというのです。ここでは、原発を自動車や飛行機と同等なものととらえています。しかし、今回の福島第一原発の事故は、原発の危険性が人間によって管理できないことを白日の下に曝し、そうした見方が全く誤っていることを明らかにしました。その調査官は次のようにも述べています。原子炉の安全性は、どのような重大かつ致命的な人為ミスが重なっても、また、どのような異常事態(例えば、原子炉施設への大型航空機の墜落)が生じても、原子炉内の放射性物質が外部の環境に放出されることは絶対にないといった達成不可能レベルの程度の安全性をいうものではないであろうというのです。チェルノブイリ事故の経験はここでは完全に無視されており、阪神大震災も無視されています。想像力の欠如か、わざとこれらのことを避けたのかわかりませんが、阪神大震災後に書かれたものとしては、到底説得力のあるものではありません。こうした説明をみると、最高裁調査官もまず原発の稼働ありき、その前提として原発は安全であるとの神話にとらわれ、想定したくない事柄については敢えて目をつぶったというほかないと思います。福島第一原発事故は、原発の安全神話を完膚なきまでに打ち壊しましたが、それは、原発の安全神話によりかかった最高裁の根本的な考え方を打ち壊したといってよいと思います。私たちこの訴訟にかかわるひとりひとりが、改めてそのことを確認し、そこから司法の役割を考える責任があると思います。

3 私はかつて水俣病訴訟に携ったことがありますが、ある席で、私は水俣病に終生かかわられた原田正純先生に、「先生はなぜこれ程までに深く長く水俣病問題にかかわってこられたのですか」と尋ねたことがあります。原田先生は、穏やかな表情で、しかし、即座にきっぱりと、その著書「水俣が映す世界」にあるように、「私は、水俣でおこっていたことを、その現場にいって見てしまった。見てしまった責任を果たすように、天の声は私に求めたのです。」といわれました。原田先生は、「私にとって、水俣病をつうじてみた世界は、人間の社会のなかに巣くっている抜きさしならぬ亀裂、差別の構造であり、水俣病をおこした真の原因は、その人を人として思わない状況(差別)であり、被害を拡大し、いまだに救済を怠っているのも、人を人と思わない人間差別にあることがみえてきた。」といわれました。この言葉は私の胸の奥深くに突き刺さり、その後の私の法律家としての活動に大きな影響を与えています。私が今回の訴訟に加わったのも、福島第一原発の事故と福島の人びとの苦難を見てしまい、見てしまった者の責任を果たさねばならないとの思いからでした。

4 いま関電は、大飯原発の稼働を続け、国はそれを容認しています。電力各社は次々と再稼働を申請する構えです。福島第一原発の事故原因も解明せず、多くの福島の人びとの苦難を放置して、次なる原発事故の可能性を生じさせようとしている。人を人と思わない構造がここでもあらわれているというほかありません。私たちは、福島第一原発の事故が私たちを含む人類全体に開示した恐るべき事実から目をそむけてはならないと思います。自動車事故や飛行機事故とは全く異次元の、人類存在の根底を脅かすもの、原発はそのような存在であることを、改めて直視すべきだと思います。そこから目をそむけることは、人を人として思わない状況を作り出すことに手を貸すことになる。福島第一原発の犠牲になり、苦難にあえぐ人たちに寄り添い、それを自らのものとしながらこの訴訟を提起した1107名の原告と、その背後にある膨大な人びとの思いを裁判所は正面から受け止めて頂きたい。安全神話が打ち壊され、従来の大半の裁判所の拠って立つ基礎が崩れたというところから、改めて司法の役割を考えることが、この裁判に問われていることなのです。裁判所におかれては、司法の役割を誠実に、そして勇気をもって果たして頂くように心から願って、私の冒頭の弁論を終えます。