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◆第2回口頭弁論(2013年12月3日)

次回、第2回口頭弁論は、12月3日(火)14時からです。

  • 京都地方裁判所
  • 2013年12月3日(火曜日)
  • 開廷 14時(法廷は2時間程度の見通しです。)

一般的な傍聴席の抽選は、裁判所が行います。傍聴の抽選時間などの詳細は未定ですが、前回の第一回口頭弁論と同じだとすると、12時~12時20分、御苑の富小路門にて抽選券の配布、13時5分、抽選発表となります。原告席の分は、メーリングリストにて詳細をご連絡します。 

京都地裁前の大横断幕(2013年12月3日)
京田辺市の原発ゼロプログラムの会が作成

第2回口頭弁論の報告

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第7 まとめ

出口治男弁護士(京都脱原発弁護団長)

1 私は1970年(昭和45)4月に裁判官に任官しました。当時公害問題が全国で多く噴き出しており、若い弁護士達が全国の公害の現場に入っていきました。水俣病やイタイイタイ病、四日市ぜん息等の訴訟が次々と提起されていました。私達裁判所に入った若い裁判官も、公害や環境訴訟にいかに取り組むかについて、真剣に議論しました。1977年(昭和52)1月に裁判官懇話会で環境訴訟の問題を取り上げたのはそのひとつの成果でした。ただそのなかで、裁判官が行政や国の政策にかかわる問題を取り上げるとき、選挙の洗礼を経ないたった3人の裁判官が、国の政策を変更するようなことが果たしてできるのか、あるいは原発のような、極めて高度に専門的な問題について、裁判官は判断する能力があるのかということが、深刻な議論になり、憲法と法律及び良心に従って積極的な審理をすべきであるという者と、消極的な姿勢の者とに意見が分かれたことを記憶しています。

2 特に原発のように、高度に専門的な問題について、裁判所はどのようなスタンスで事件に立ち向かうべきか、ということが、司法積極主義に立つ若い裁判官に突きつけられた難問でした。積極的な立場に立つ若い裁判官がそのような裁判の場から排除されていくなかで、この問題について、ひとつの解決の指針を与えたのが、伊方原発の最高裁判決でした。そして、この最高裁判決を解説した調査官の解説が、その後の下級審をリードしていったと思われます。解説のなかで、その調査官は次のように述べています。

すなわち、自動車、飛行機、船等の交通機関、医薬品、電気業界、ガス器具、レントゲン等の医療用の放射能利用等、科学技術を利用した各種の機械、装置等は、絶対に安全というものではなく、常に何等かの程度の事故発生等の危険性を伴っているが、その危険性が社会通念上容認できる水準以下であると考えられる場合に、又はその危険性の相当程度が人間によって管理できると考えられる場合に、その危険性の程度と科学技術の利用により得られる利益の大きさとの比較衡量の上で、これを一応安全なものとして利用しているが、このような相対的安全性の考え方が従来から行われてきた一般的な考え方で、原子炉の安全性についても同様のことが言い得るというのです。ここでは、原発を自動車や飛行機と同等なものととらえています。しかし、今回の福島第一原発の事故は、原発の危険性が人間によって管理できないことを白日の下に曝し、そうした見方が全く誤っていることを明らかにしました。その調査官は次のようにも述べています。原子炉の安全性は、どのような重大かつ致命的な人為ミスが重なっても、また、どのような異常事態(例えば、原子炉施設への大型航空機の墜落)が生じても、原子炉内の放射性物質が外部の環境に放出されることは絶対にないといった達成不可能レベルの程度の安全性をいうものではないであろうというのです。チェルノブイリ事故の経験はここでは完全に無視されており、阪神大震災も無視されています。想像力の欠如か、わざとこれらのことを避けたのかわかりませんが、阪神大震災後に書かれたものとしては、到底説得力のあるものではありません。こうした説明をみると、最高裁調査官もまず原発の稼働ありき、その前提として原発は安全であるとの神話にとらわれ、想定したくない事柄については敢えて目をつぶったというほかないと思います。福島第一原発事故は、原発の安全神話を完膚なきまでに打ち壊しましたが、それは、原発の安全神話によりかかった最高裁の根本的な考え方を打ち壊したといってよいと思います。私たちこの訴訟にかかわるひとりひとりが、改めてそのことを確認し、そこから司法の役割を考える責任があると思います。

3 私はかつて水俣病訴訟に携ったことがありますが、ある席で、私は水俣病に終生かかわられた原田正純先生に、「先生はなぜこれ程までに深く長く水俣病問題にかかわってこられたのですか」と尋ねたことがあります。原田先生は、穏やかな表情で、しかし、即座にきっぱりと、その著書「水俣が映す世界」にあるように、「私は、水俣でおこっていたことを、その現場にいって見てしまった。見てしまった責任を果たすように、天の声は私に求めたのです。」といわれました。原田先生は、「私にとって、水俣病をつうじてみた世界は、人間の社会のなかに巣くっている抜きさしならぬ亀裂、差別の構造であり、水俣病をおこした真の原因は、その人を人として思わない状況(差別)であり、被害を拡大し、いまだに救済を怠っているのも、人を人と思わない人間差別にあることがみえてきた。」といわれました。この言葉は私の胸の奥深くに突き刺さり、その後の私の法律家としての活動に大きな影響を与えています。私が今回の訴訟に加わったのも、福島第一原発の事故と福島の人びとの苦難を見てしまい、見てしまった者の責任を果たさねばならないとの思いからでした。

4 いま関電は、大飯原発の稼働を続け、国はそれを容認しています。電力各社は次々と再稼働を申請する構えです。福島第一原発の事故原因も解明せず、多くの福島の人びとの苦難を放置して、次なる原発事故の可能性を生じさせようとしている。人を人と思わない構造がここでもあらわれているというほかありません。私たちは、福島第一原発の事故が私たちを含む人類全体に開示した恐るべき事実から目をそむけてはならないと思います。自動車事故や飛行機事故とは全く異次元の、人類存在の根底を脅かすもの、原発はそのような存在であることを、改めて直視すべきだと思います。そこから目をそむけることは、人を人として思わない状況を作り出すことに手を貸すことになる。福島第一原発の犠牲になり、苦難にあえぐ人たちに寄り添い、それを自らのものとしながらこの訴訟を提起した1107名の原告と、その背後にある膨大な人びとの思いを裁判所は正面から受け止めて頂きたい。安全神話が打ち壊され、従来の大半の裁判所の拠って立つ基礎が崩れたというところから、改めて司法の役割を考えることが、この裁判に問われていることなのです。裁判所におかれては、司法の役割を誠実に、そして勇気をもって果たして頂くように心から願って、私の冒頭の弁論を終えます。

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第6 応援弁論 玄海原発差止訴訟

板井優弁護士(原発をなくそう!九州玄海訴訟弁護団共同代表)

1 私は、この裁判の原告代理人であると同時に、「原発なくそう!九州玄海訴訟」弁護団の共同代表をしています。

私は、こうした立場から「原発なくそう!九州玄海訴訟」の事を話して本日の弁論に参加したいと思います。

裁判長

2011年3月11日以降福島で起こった原発事故は、九州の私たちを「福島世代」にしました。

かつて、私は、8年6ヶ月水俣市にて水俣法律事務所を開設いたしました。それは、水俣病問題を解決するためでした。ところで、今回福島で東電の原発事故が起こるに及んで、九州では原発は何が何でも廃炉にしなければと思い、今回の原発差止め裁判になりました。私たちは、その訴状を「原発を廃炉に」とのブックレットにして公刊しました。

2 玄海原発差止め訴訟の概要

九州にある原子力発電所には、佐賀県の玄海町にある玄海原子力発電所、鹿児島県の薩摩川内市にある川内原子力発電所の2カ所があります。今、玄海原発のある佐賀地方裁判所には6097名の原告が150名以上の原告代理人と共に、玄海原発の1号機から4号機の操業中止を求めて裁判をしています。私たちは、今年中に1万人を超える原告の参加を求めて追加提訴をしています。私たちの兄弟訴訟である「原発なくそう!九州川内訴訟」は現在約2000人の原告で川内原発の1号機、2号機の操業中止を求めて裁判をしています。これが今、九州にある原発の全てです。

私たちは、2011年夏頃から裁判を準備し、2012年1月31日に裁判を提起しました。

以下は、私たちがどのように原発を廃炉にしていくのかについて述べたいと思います。

3 東電福島第1原発における原発被害をどう考えるか。

私たちは、今年春に、「原発を廃炉にパートⅡ、1万人原告の挑戦」というブックレットを出しました。この本の中で、大きくページを割いているのは、原発の危険性であります。福島では、今なお15万人以上の人が故郷を離れて生活しています。私たちは、福島での原発被害は、半永久的・壊滅的被害と呼んでいます。今年の連休に福島市の隣の飯館村に行きましたが、村民は居ないゴーストタウンでした。この事故で東電はほぼ倒産し国有化されるにいたりました。この事故が起こり、福島では、東電福島第1原発のみならず、第2原発も含め全ての原発の廃炉を求めています。この被害を受けた福島県民はまさにその立場から当たり前の要求を述べているのです。

私たちは、同じような事故は2度と起こしてはいけないと考えています。もう一度起これば、この国は、日本は壊滅すると思っているからです。いうまでもなく、わが国の上空にはジェット気流が西から東に高速で流れています。福島は、そのジェット気流のわが国での終点です。しかし、九州はわが国ではジェット気流の始発点です。私どもの原告が中心になって、玄海原発付近から風船プロジェクトを行いましたが、遠くは奈良県まで風船が飛んでいます。この裁判で問題にしている福井県から数々の風船プロジェクトが行われ、遠くは埼玉、千葉まで風船が飛んでいます。もう一度原発事故が起これば、まさにわが国全土が被害自治体・住民になるのであり、人の命や健康だけでなくわが国の経済も含めて全て壊滅するのです。

しかも、原発は事故が起こらなくても日常的に放射線を放出しているのです。その結果、玄海でもそうですが、原発立地自治体及び周辺自治体においては、他の地域と比較して、ガンや白血病死亡率が高いことが確認されています。

4 なぜ私たちは九州電力だけでなく国をも共同被告にしたのか。

私たちは、九州の裁判で、九電だけではなく国も共同被告にしています。わが国の原発は個別の電力企業だけで出来るものではなく、まさに国の原子力発電推進政策が前提になっています。したがって、全ての原発を廃炉にするには、国をも被告にする必要があります。そして、全ての原発を廃炉にするには、わが国の国民世論がそれを現実に求めることが必要です。ここに私たちが国を共同被告に据えた理由があります。

これまで、3・11以前に原発を問題にした裁判では、個別の原発の危険性を問題にしていました。

しかし、これでは全ての原発を廃炉にすることは出来ないと考えます。

5 安全基準は存在しない。あるのは操業基準である。

私たちは、九州で裁判をするに当たり、原発をめぐる安全性に関する科学論争をこちら側からはしないと考えました。国はこれまで原発に関して安全基準があるとして、裁判所でもそうした立場から審理が行われていました。本当に安全基準は存在するのでしょうか。

水俣病では、チッソは当時の水道法による水銀の規制値をクリアして排水を出していました。しかしながら、水俣病は発生しました。

カネミ・ライスオイル事件の当時、PCBを規制する法律はありませんでした。したがって、カネミは当時の基準をクリアして操業していました。しかし、カネミ事件は発生しました。

言うまでもなく今回、福島で事故を起こした原発は、当時の国の規制をクリアしていました。しかし、原発事故は起きたのです。

この国では、企業が事業を始める前に、一定の操業基準をクリアしているかどうか行政がチェックします。

要するに、国の基準は安全基準ではなく単なる操業基準に過ぎません。

国は、今回、原子力規制委員会を使って、活断層が原発の下を走っていれば危険な原発として問題にしているようです。では、そうでない原発は安全な原発なのでしょうか。

原発事故を起こすのは地震だけではありません。人為的ミスもあります。先ほどロシアで起こった隕石の落下もあります。航空機の墜落もあります。現に、アメリカと日本との間では、オスプレイは原発の上空は飛行禁止区域になっています。さらに、テロ、究極的にはミサイルを使ったテロもあります。その種のテロは朝鮮半島に近い九州では極めて現実的な問題です。

ところで、九電は、全電源喪失を予測した事故対策をしているからとして、川内の1号機、2号機、玄海の3号機、4号機の再稼働申請を今月8日にもするとしています。これは、単なる後出しジャンケンに過ぎません。これで、安全とはいえないことは明らかです。

6 裁判所に期待するもの

国は、今回福島で起こったことは800万年に一回の比率とでも言っているようです。しかし、原発が生まれたのは戦後であり、まだ、70年にもなっていません。しかしながら、スリーマイル島、チェリノブイリ、福島と、人類は3回も大きな原発事故を体験しているのです。

わが国では、イタリアやドイツのように立法府も行政府も原発を廃炉にする道を示していません。ところで、わが国では、かつて四大公害裁判の時に司法が理性を発揮して優れた判決を出しました。これが公害根絶を求める国民世論となりました。

私は、原発事故はその態様によっては戦争よりも深刻な被害を巻き起こす公害であると思います。裁判所におかれては、二度とわが国で原発事故を引き起こさないための歴史的な判決を下し、これが基になって壮大な国民世論、すなわち「力のある正義」を作り出し、この国の国会で仮称ではありますが、全ての原発を廃炉にする脱原発特措法を制定し、原発から自由になろうではありませんか。

以上で、私の意見陳述を終わります。

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第5 相変わらずの安全神話による
  大飯原発再稼働

大島麻子弁護士(京都脱原発弁護団)

福島原発事故の原因究明のため、2011年12月、国会に事故調査委員会が設置され、翌年7月、報告書が公表されました。この報告書では、今回の事故は自然災害でなく、あきらかに人災であると結論づけられています。すなわち、国会事故調査委員会は、事故の根本的原因は、規制される側の電力会社と、規制する側の国の立場が逆転し、原子力安全についての監視・監督機能が崩壊したことにあると指摘しているのです。この逆転の歴史は高度経済成長期まで遡るもので、東電は、原発の稼働率が下がることや、訴訟で不利になることを恐れ、歴代の規制当局に強力な圧力をかけ続けていました。いわゆる「安全神話」は、こうした長期間にわたる逆転現象の中から誕生したものなのです。

この報告書の公表と同じころ、国会では「原子力規制委員会設置法」が成立し、2012年9月19日、新しい原子力の規制・監督組織として、原子力規制委員会が発足しました。世界的な大事故が起こってから1年半、ようやく、日本は、「安全神話」の見直しへの第一歩を踏み出したかのようにみえました。

しかしながら、大飯原発3号機・4号機の再稼働は、こうした「安全神話」の見直しの前に、抜け駆け的に行われてしまいました。国が、「原子力発電所の再起動にあたっての安全性に関する判断基準」、いわゆる暫定基準を定め、大飯原発3号機・4号機の再稼働を決定したのは、2012年6月18日のことです。この時点では、原子力規制委員会はまだ発足していません。それどころか、国会事故調査委員会の報告書も公表されていません。国がホームページで公表した暫定基準は、A4の用紙にしてわずか12頁、たった3つの安全基準が付け加わったにすぎません。しかるに、国はこの暫定基準について、「徹底的な事故検証から得られた知見の集大成」と自画自賛し、大飯原発3号機・4号機の再起動を決定したのです。

このように国や関西電力が、安全性を無視したまま大飯原発3号機・4号機を稼働させ続けていることは、この7月8日に施行される予定の新規制基準の下での安全体制にも矛盾をもたらしています。この矛盾を取り繕うため、今年3月19日、原子力規制委員会は、大飯原発3号機・4号機が、新規制基準にどこまで対応しているのか、その現状確認作業を行うと決定しました。つまり、原子力規制委員会は、新規制基準の作成作業と、その新規制基準に照らした大飯原発3号機・4号機の現状評価作業を同時並行で行うこととしたのです。このような常識では考えられないようなことが、公然と、平然と、行われているのです。

国会事故調査委員会は、従来の規制当局は電力事業者の虜となっていたと鋭く指摘していました。新しい規制当局であるはずの原子力規制委員会も、やはり電力事業者の虜になっているといわねばなりません。国も、電力会社も、未だに安全神話の中にどっぷりとつかっています。未曾有の大事故に直面してもなお、国や電力会社は現実を直視することができないのです。裁判所には、1100名を超える市民が原告となった、この訴訟の重さを受け止め、最後の砦としての役割を果たすよう期待します。

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第4-2 被災と避難の実態

Aさん(福島県から京都府への避難者)

私と私の家族は福島第一原子力発電所の事故により、人生が大きく変わってしまいました。

福島県のホームページによると、3月15日に福島市では毎時最大24.24マイクロシーベルトの放射線がでていました。しかしその時私はそれを知りませんでした。最も放射線値が高い時に福島市にいた子供たちがどれだけ初期被曝をしたのかわからず今でも大変心配です。

4月に入り学校の新学期が始まりましたが、福島市の放射線値はまだ平常値の40倍以上もありました。子供たちは、事故前までは学校まで40分かけて自転車通学していましたが、外部被曝、内部被曝を少しでも避けるために車で送り迎えをすることにしました。子供たちは福島の自然豊かな春の息吹を感じながら爽快に自転車をこいで登下校することがかなわなくなりました。学校でも校庭での活動が制限されました。そんな毎日を送るうちに私は福島にとどまり放射性物質の影響を心配したり制限された生活を送るよりも、子供たちが自由に外で活動し、伸び伸びと普通の生活を送ることのできる環境に移るほうが幸せではないかと考えるようになりました。そして家族内で何度も相談した結果避難を決意したのです。子供自身も不安もあっただろうに、新しい環境でもなんとかやっていけるだろうと言って意欲を見せてくれたので、2011年8月に子供二人とともに福島県福島市から京都府に避難してきました。

しかし残念ながら子供はここでの生活に適応できていません。こちらの学校の生徒さんたちは皆、3月11日以前となんら変わることのない幸せな生活を送っています。その中で自分一人だけ何もかも環境が変わってしまい、生まれ育った家を離れ、父親と離れ、気心の知れた幼いころからの友人たち、切磋琢磨していた学友たち、熱心に指導してくださっていた先生方…福島でのかけがえのない幸せな生活に別れを告げることとなってしまったのです。原発事故のせいで。親の避難するという判断のせいで。この疎外感と喪失感は子供にとって想像以上に大きかったと思われます。

避難してからの1年11か月の間に子供は無気力になってしまいました。そのいら立ちを私に向けて、息子は言います。「何も楽しいことがなくなった」「目標がなくなった」「自分の人生はおしまいだ」と。そして頻繁に怒りを爆発させ、私との関係は非常に悪いものとなっています。仕事のために福島に残っている夫は、家事や雑事、年老いた親の介護のすべてを一人でこなさなくてはならなくなり、多忙を極めています。そのため子供と電話で話すこともめったにありません。ましてや遠い京都に頻繁に来るわけにもいかず、同居していれば当たり前の父と息子のコミュニケーションが二重生活では成り立たなくなっています。夫の健康もとても心配です。

では福島に帰れば問題は解決するのでしょうか。この2年間に何度も子供と話し合いました。帰ったからと言って3月11日以前と全く同じ環境に戻れるわけではありません。元の学校に入れたとしてもクラスメイトや学習カリキュラムや学習進度は変わります。友人関係も学習もまた一から築き上げなくてはならないのです。精神的に疲れ切った子供が帰る決断をするのは難しいことでした。子供は福島でやり直す気力も失ってしまったのです。一度福島から出てきてしまうと、帰ることも簡単ではないのです。

毎日親子でピリピリと緊張した日々を送りいさかいを繰り返しています。子供の大事な時間はいたずらに過ぎ、親子関係は悪くなり家庭は平和ではなくなってしまいました。子供の安全と幸せのために避難したのにすべてが裏目に出てしまったのです。福島で暮らしていた時のように、意欲と希望に満ち溢れた子供に再びなってほしい。そのためにはどうするのが最善なのか、私は毎日自問自答しています。子供自身も葛藤の日々なのがひしひしと感じられます。

身体の健康と精神の健康はつながっていて、どちらも等しく重要です。どちらか一方を選ぶことなどできないのに、私たちは二つを天秤にかけなければならず、その結果子供の人生を狂わせてしまいました。子供の不幸が私にとって一番苦しいことです。子供はこの先ずっと私を恨み続けるでしょう。私も一生償いきれない責任を負って生きていくでしょう。

私は、子供が京都にいる間にもし大飯原発で放射性物質が放出される事故が起きたらどうしようと恐ろしくてたまりません。子供に二重被曝をさせてしまうことになります。いつもその心配が頭の片隅にあります。

原発事故が起きたらすべてを捨てて逃げましょう、という前提で暮らすなんて異常です。放射能汚染によって失われるのは形あるものだけではありません。人の心は病み、人間関係が壊れます。長期間悩み苦しんで不安を持ち続けるのです。多くの人の人生が狂ってしまう危険のある原子力発電は必要ありません。大飯原子力発電所の運転は一刻も早く止めてください。

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第4-1 被災と避難の実態

福島敦子(福島県から京都府への避難者)

水は清き故郷(ふるさと)でした。

命がけで川へ戻ってくる鮭の躍動が、こどもたちに感動を与えてくれる故郷(ふるさと)でした。

たらのめやタケノコ、栗や、まつたけが季節の移り変わりを教えてくれました。

今は、除染が全く進まず、人間の住む世界と隔絶された世界が広がる故郷(ふるさと)になりました。

今まで癒しと恵みをもたらしてくれた私たちの故郷(ふるさと)の山や海に、何百年も消えることのない毒をまかれたのです。

私は、福島県南相馬市より避難してきた福島敦子です。

福島第一原子力発電所の爆発当時は、川俣町そして、放射線量が最も高く示された福島市に避難しておりました。当時は、なぜ近距離の南相馬市より線量が高いのか解りませんでした。

一度戻ろうと思った南相馬市は13日には市の境に川俣町の警察署員などによりバリケードが張られ、入ることができなくなりました。

2011年3月13日の夜、福島市飯坂町の小さな市民ホールの避難所には、800人もの人が押し寄せました。地震のたびに携帯電話を手にする人々、消灯後の部屋がぼんやり青白く光ると、夜中なのに大きな荷物をもってせわしなく足早に出ていく人々、入ってくる人々が子供の寝ている頭を踏みそうになります。放射能が多く降り注いだとされる15日には、仮設トイレまで雪をかぶりながら入らなければなりませんでした。毎日毎日来る日も来る日も外で遊べない子供たち。ボランティアの人に風船をもらった子供たちは次々に飛び跳ねては上手にパスしあいます。足元には、体を横たえている大人が数人いました。わたしは、一番年長の娘に今すぐやめるよう強く言いました。辛抱強い娘はこどもたちにそれぞれ家族のもとへ戻るよう告げると、声を殺して泣きました。

明け方のトイレには、壁まで糞便を塗りつけた手のあと。苦しそうな模様に見えました。

食べるものなどほとんど売っていないスーパーに何時間も並び、列の横に貧血で倒れている老女がいました。インフルエンザが蔓延した近くの避難所では、風呂に入ることができないため、温泉街までペットボトルに温泉水を汲みに行き、湯たんぽの代わりにして暖をとる人がいました。

ガソリンを入れるのに長時間並び、ガソリンを消費して帰ってきました。より遠くへは避難できない人がたくさんいました。隣のスペースに、孫にかかえられて避難してきた年老いた人は、硬い床に座っていることがつらくて、物資の届かない南相馬市へ帰っていきました。テレビで次々に爆発していく福島第一原子力発電所の様(さま)様(さま)を避難所の人たちが囲んで観ている。毎日が重く張り詰めた空気の中、死を覚悟した人も大勢いた避難所の生活は、忘れられません。

2011年4月2日、私は娘2人を連れ、京都府災害支援対策本部やたくさんの友人の力を借り、ごみ袋3つに衣服と貴重品をつめて、京都府へと3度目となる避難をしてまいりました。

その時に、貴重品以上に大切なものが私たちにはありました。『スクリーニング済証』というものです。

これを携帯しなければ、病院に入ることも避難所を移ることもできませんでした。私たちは、被ばくした人間として、移動を制限されていたからです。また、この証明書は、外部被ばくに限られた証明書であって、内部被ばくの状況は今もわかりません。今現在、誰もわかりません。これは、広島長崎の原爆被害、チェルノブイリの症状でも明らかなように、血を受け継いでいくものであり、永遠の苦しみとなることはゼロではないからです。

到着は夜でした。翌朝からは、京都府災害支援対策本部の方の案内で居住地を決めたり、娘2人の学校の手続きをしたりしました。2日後に、始業式がせまっていました。

40歳の2人の子を持つ女性として、就職活動も始めなければなりませんでした。時給800円の6ヶ月期限の事務の仕事にかろうじて就くことができました。

学校では、名前がふくしまということもあり、『フクシマゲンパツ』とあだ名をつけられたこともあった娘ですが、気遣ってくださる先生方、たくさんの気の合う友達に恵まれ、持ち前の明るさで乗り切りました。さよならを言う間もなくバラバラになってしまった南相馬市の友達には、避難所の様子や仮の校舎で学ぶテレビのニュースに映る姿を見つけては、元気をもらっているようでした。

私たちの暮らしは、その日その日を精一杯『生きる』ことで過ぎていきました。

あれから800日以上たった現在、福島第一原子力発電所の状況は収束せず放射能が放出し続けています。なぜ事故が起こったのかの具体的な理由も責任も、誰一人問われることなく、ただ被災した人々は日々の生活に疲弊し、家族の崩壊と向かい合っていかなければならなくなりました。除染が進まない避難指示区域の解除をされても、家はすでにすさみ、なじみの店はありません。孤独死や、自殺する人を耳にすることが増えました。子供たちの声も聞かなくなりました。私たちが今、福島県へ帰ったとしても、元の街にはもう戻らないのです。

そんな折の大飯原発の再稼働は、日本中の原発の中から優遇されるべき根拠も見当たらず、関西電力の経営努力の怠慢さも浮き彫りになり、地元の人々の不安と日本国民の原発に対する懸念の声を全く無視した人権侵害であり、日本最大級の公害問題であります。

国内の主要大学・大学院にある原子力関係の学科、専攻で定員割れしている状況は、子供たちの我々大人に対する未来へむけた拒否とはとれないでしょうか。これは、関西電力の優秀な人材確保に永劫はなく、フクシマの復興にも悪影響を及ぼしかねないゆゆしき事態なのであります。

司法は、この日本国民の大きな民意を水俣裁判と同様、50年も60年も放置するおつもりでしょうか。この民意は、一過性のものだとお考えでしょうか。いったいどれほどの人々が苦しめば、真剣に向き合ってくださるのでしょうか。

こどもを守ることに必死な、懸命な母親たちをどうか救ってください。

こどもたちに少しでも明るい未来をどうか託してあげてください。

私たち国民一人ひとりの切実な声に、どうか耳を傾けてください。

大飯原発の再稼働は、現在の日本では必要ないと断罪してください。

もう、私たち避難者のような体験をする人を万が一にも出してはいけないからです。

司法が健全であることを信じています。

日本国民は、憲法により守られていることを信じています。

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第3-2 現在の避難状況について

畠中孝司弁護士(京都脱原発弁護団)

  • 黒丸は添付パワーポイントによる。
  • 原告団Webチームより:パワーポイントのデータは著作権の関係で掲載していません。

2 現在の避難状況について

東日本大震災、福島第一原発での事故後、放射能による汚染のため、福島第一原発周辺地域の住民の多くが政府の指示によりあるいは自主的に避難しました。

政府の指示によりまたは自主的に避難した者は2011年(平成23年)8月29日時点で、合計14万6520人に上ります。これはチェルノブイリ原発事故により事故から1年以内に避難した人数とほぼ同等です。

過酷な原発事故が地震等の自然災害と決定的に違うのは、原発周辺地域が放射能に汚染され、長期間にわたって人間が生活を営むことさえできない状況に陥ってしまうことです。この点、チェルノブイリ原発事故では、事故から20数年経過しているにもかかわらず、原発から半径30キロメートル圏内が立ち入り禁止となっています。

実際、避難指示が出された地域では現在も高い線量の放射線が残存しており、原発事故発生から2年以上が経過した現在においても、住民の帰還の目処すらついていないところがほとんどです。そして、それにも増して、避難した住民自身が故郷に戻って被爆することを恐れ、故郷には戻らないと考えている者がその多くを占めます。

●双葉町のアーケードと無人の写真

この写真は、住民避難により無人となった双葉町のアーケードです。福島第一原発事故による放射能汚染で、周辺市町村の住民は村ごとあるいは町ごと避難したところもあります。帰還の見込みは立たず、これまで築かれてきた人々の絆、コミュニティを破壊し、地域の多面的な機能である自然環境、経済、文化などの諸要素が完全に解体されました。

また、仕事を持つ夫が地元に残り、妻が子を連れて避難するという母子避難となるケースも多数あり、家族離散という結果も生じています。福島第一原発の事故は地域コミュニティを破壊し、正常な家族生活すら破壊しており、放射能汚染の危険がある限りその回復は望めません。また、その危険がある以上、避難者も帰還したくても帰還できないのです。

福島原発事故の避難者は住み慣れた土地を離れ、慣れない土地での生活が長く続いています。また、自身が放射能に汚染されているかも知れないとの不安を抱えながらの生活です。

住み慣れた故郷を失い、故郷での仕事を失い、様々な精神的ストレスを抱え、それでも故郷には戻りたくないと考える被災者が多数を占めるというのが福島第一原発事故後の現状なのです。

●防護服を着た警察官による捜索状況の写真

この写真は福島第一原発事故後に、警察官が防護服を着て捜索をしている様子です。2011年(平成23年)3月27日、福島第一原発から約5キロの福島県大熊町で、高い放射線量が測定された遺体が見つかっています。放射線量が高く、火葬も土葬も困難で、警察も遺体の収容をあきらめており、身元の確認もできず、このまま野ざらしのまま放置されることになります。不幸にも自然災害で命を失い、その後被曝し、死亡が、遺体が確認されているにもかかわらず、身元確認すらままならない、火葬、埋葬すらしてもらえないのです。

現在、福島第一原発から約20キロの圏内に東日本大震災で亡くなった人の遺体が数百~数千あると推定されており、同様の問題があると考えられます。

震災から、原発事故から生き延びた人のみならず、亡くなった人の人間としての尊厳も踏みにじる、それだけ悲惨な現実を作り出すのが原発事故なのです。

●福島第一原発の構内のタンクの写真

福島第一原発では、日々、汚染水が増加し続け、処理の目処が立っていません。海洋放出すら検討されています。核燃料の取り出し、具体的な廃炉についても、全く目処が立っていません。そして、福島第一原発も、その他の原発も、危険な放射性物質を、人類から隔離しながら、数万年も安全に保管しなければなりません。80年前の津波の経験すら伝えることができなかった私たちになぜそれが可能なのか、答えはありません。

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第3-1 避難状況と2年後の現在の状況

三上侑貴弁護士(京都脱原発弁護団)

  • 黒丸は添付パワーポイントによる。
  • 原告団Webチームより:パワーポイントのデータは著作権の関係で掲載していません。

1 事故直後の状況

●海洋汚染の動画

海洋汚染の状況を予測した動画をご覧ください。2012年3月の段階でも、非常に広範囲に海洋が汚染されていることが分かります。福島原発事故により、海洋に流出した、あるいは意図的に放出された汚染水に含まれる放射能は、4700兆ベクレルを超え、周辺海域を汚染したことで国際的にも被害を及ぼし、大きな問題となりました。

●陸上の汚染の図

また、福島原発事故により、大量の放射性物質が大気中に放出されました。東電によれば、事故直後の数日間は、毎時2000兆ベクレル、4か月を過ぎた7月下旬~8月上旬においても、毎時2億べクレルという大量の放射性物質の放出が継続していました。

●ヨウ化カリウムを飲む写真

福島原発事故から放出された放射性物質により、住民が被曝した可能性が高いことから、東日本大震災の翌日である2011年3月12日、福島県川俣町では、避難した40歳未満全員が甲状腺がんを防ぐヨウ化カリウムを服用することとなりました。

●被ばく検査を受ける写真

また、3月14日から同年4月14日までに、避難住民は被曝の有無を把握する検査を受けることを余儀なくされました。

放射性物質の危険性にかんがみ、政府や自治体は、福島原発周辺の自治体に避難指示を行いました。福島原発事故による避難区域指定は、福島県内の12市町村に及びました。

しかし、東電が3月11日15時42分に10条通報を行い、16時45分に15条報告が経済産業大臣、福島県、立地県に対して通知され、19時3分には国から原子力緊急事態宣言が発せられましたが、翌12日朝に10キロメートル避難指示が発令されるまで、住民の原発事故に対する認知度は全般的に低い状態でした。

●避難する写真

福島原発事故翌日までに避難指示は3キロ圏、10キロ圏、20キロ圏と繰り返し拡大され、そのたびに住民は、不安を抱えたまま、複数回の避難を強いられ、長時間移動することを余儀なくされました。その中には、後に高線量であると判明する地域に、それと知らずに避難した住民もいました。この間、住民の多くは、福島原発事故の深刻さや避難期間の見通しなどの情報を含め、的確な情報を伴った避難指示を受けることができず、ほんの数日間の避難だと思って半ば「着の身着のまま」で避難先に向かい、そのまま長期の避難生活を送ることになり、生活基盤は崩壊しました。

●患者の避難の写真

20キロ圏内の病院や介護老人保健施設などでは、避難手段や避難先の確保に時間がかかり、避難を待つ間体育館で待機していた重篤患者に、発熱、低酸素血症など、明らかな容態の悪化がみられるなど、過酷な状況が続き、3月末までに少なくとも60人が亡くなるという悲劇も発生しました。

●避難を待つ患者の写真

特に、避難指示を受けた福島県大熊町の双葉病院には3月14日時点で病状の重い患者146人が残されていましたが、避難を余儀無くされ、14日と15日に自衛隊によって3回にわたる搬送が行われましたが、結局21人が搬送中や搬送後に死亡しています。

●双葉町住民の避難写真

双葉町民は、3月19日に役場機能自体を埼玉県さいたま市に移し、3月30日から31日にかけて、埼玉県加須市に再び役場機能を移さざるを得ませんでした。それに伴い、双葉町民1400人以上が、旧騎西高校避難所で暮らすことを余儀なくされました。

●避難区域の図

3月15日には、20~30キロ圏内の住民に屋内退避が指示され、3月25日には、同圏の住民に自主避難が勧告されました。政府は、住民に判断の材料となる情報をほとんど提供せず、避難の判断を住民個人に丸投げし、より一層の混乱を招いたのです。

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第2 安全神話の末の福島第一原発事故の発生

渡辺輝人弁護士(京都脱原発弁護団事務局長)

  • 黒丸は添付パワーポイントによる。
  • 原告団Webチームより:パワーポイントのデータは著作権の関係で掲載していません。

●「地震付き原発」の図

竹本修三先生が意見陳述し、また、訴状でも述べたとおり、地震は予知できず、「日本ではいつどこでも巨大地震が発生してもおかしくない」というのが科学的な知見です。神戸大学名誉教授の石橋克彦氏は、1997年の段階で福島第一原発のような事故を「原発震災」と名付け、事故態様までほぼ正確に予測しました。石橋名誉教授は、事故後の国会での参考人招致で、日本の原発が他の国の原発と決定的に異なるのは「地震付き原発」であり、安全に設置することはできない、と述べられました。この図はそのときに石橋名誉教授が示したものです。

一方、「原発安全神話」とは、日本の原発では深刻な事故は絶対に起こらない、ないしは、深刻な事故が起こる確率は無視できるほど小さい、という考え方です(大島堅一『原発のコスト』岩波新書p130)。

政府、電力会社が原子力発電所の設置を進める過程では、政府、電力会社はひたすら「原発は安全だ」と強調しました。そのように説明しなければ設置地元は原発を受け入れなかったし、原発の設置を推進することはできなかったのです。

そして、一度「原発は安全だ」と言って原発を設置すると、政府、電力企業は原発に安全対策を取ることにも消極的になっていきました。安全である以上コストを掛ける必要は無いし、安全対策を取れば、設置地元との関係では「やはり原発は安全ではない」なってしまうのです。

やがて、政府の機関である原子力委員会すら公に安全神話を宣言しました。1992年のシビアアクシデント対策に関する原子力委員会の決定(「発電用軽水型原子炉施設におけるシビアアクシデント対策としてのアクシデントマネージメントについて」)でも「これらの対策によってシビアアクシデントは工学的には現実に起こるとは考えられないほど発生の可能性は十分に小さいものとなっており、原子炉設置のリスクは十分に低くなっていると判断される」としたのです。

国会でも、例えば、吉井英勝議員が2006年に津波の影響で過酷事故が起こる可能性、2010年には送電線の倒壊による過酷事故の可能性を指摘しましたが、政府は何ら有効な対策を打ちませんでした。

その結果、政府も、電力企業も、一貫して重大事故についてシミュレーションすらせず、緊急事態における指揮系統すらはっきりせず、防災計画は非現実的でした。防災計画について何ら有効な対策が取られていないことは今日でも本質的に変わっていません。それは今後の審理で明らかになります。

また、裁判所も原発安全神話に与することになりました。例えば1994年の福島第二原発設置許可処分取消訴訟仙台高裁判決は「我が国は原子爆弾を落とされた唯一の国であるから、我が国民が、原子力と聞けば、猛烈な拒否反応を起こすのはもっともである。しかし、反対ばかりしていないで落ちついて考える必要がある。」などとした上でCO2排出など火力発電所の欠点を述べ、「結局のところ、原発をやめるわけにはいかないであろうから、研究を重ねて安全性を高めて原発を推進するほかないであろう。」と言い放ちました。また、1996年の伊方原発設置許可処分取消訴訟の最高裁判決は「万が一にも事故が起こらないように」との認識を示しながら、旧原子力安全委員会が作った安全設計審査指針類に「お墨付き」を与え、過酷事故を防ぐことについて有効な判断をなし得ませんでした。そして、その後の下級審判決はひたすら安全設計審査指針類に追従するようになったのです。

このように、政府、電力企業、学会、裁判所まで原発安全神話に浸かる中で2011年3月11日の東日本大震災が発生しました。福島第一原発は、地震動、それに引き続く津波により、送電網、予備電源が破壊され、全電源喪失に至りました。ここで注目すべきなのは、国会事故調査委員会は、地震動自体により原子炉の配管が破壊され、冷却水の喪失が起きていた可能性を指摘していることです。

そして、3月12日、冷却水を喪失した一号機において、まず、水素爆発が起きました(水蒸気爆発ではありません)。実際の爆発の映像をご覧下さい。また、東京工業大学の原子核工学の教授であった有冨正憲の解説もお聞き下さい。

●一号機が爆発する動画

このように、原発の第一人者であるはずの学者が、原子炉付近が爆発して巨大な建て屋が吹き飛ぶ様子を自らの目で見ていながら、東京電力が「爆発弁」という意図的な作業により水蒸気を抜いたものだと言ったのです。ほぼ同時刻にNHKに出演していた東京大学の原子力工学の教授である関村直人も同様の発言をしました。ここには、緊急時において国民の安全を最優先にする発想が微塵もありません。

そして、3月14日には引き続き3号機も爆発しました。

●三号機が爆発する動画

外国のテレビ局のアナウンサーが言葉を失う様子が印象的です。

●爆発後の福島第一原発の写真

福島第一原発のメルトダウン、メルトスルー、爆発により、大量の放射性物質が外界に放出され、現在でも放出され続けているのです。

◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第1 地震国ニッポンで、原発稼働は無理!

竹本修三(京都脱原発訴訟原告団長、京都大学名誉教授 個体地球物理学、測地学)

1.原告団長の竹本です。本日はこういうテーマで意見陳述をさせていただきます。

2.皆さんご存知のように日本は地震国です。それを再確認しておきますが、世界地図の約0.25%という狭い地域の日本に世界の大地震の約20%が起こっています。この日本に50基もの原発が存在するということを、外国の友人はとても信じられないと言います。

3.日本は、海側のプレートである太平洋プレートとフィリピン海プレート、それに陸側のプレートのユーラシアプレートと北米プレートとのせめぎ合いで歪が蓄積している世界でも最も地殻活動が活発なところです。そこで起こる地震は、海と陸のプレート境界で起こる海溝型地震、これはマグニチュード8以上の巨大地震になります。また、内陸部及び日本海側では、プレート間の押し合いで溜まる歪が破壊限界に達すると割れて断層型の地震が起こります。この内陸部の断層型地震の最大のものは、1891年(明治24年)の濃尾地震で、マグニチュードは8.0でした。

4.海溝型地震の典型的なものが、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震で、マグニチュードは9.0でした。この地震のときに、震源域では、上下方向には最大5.5mの隆起、水平方向には東南東に最大50mを超える変位がありました。次の海溝型地震としては、南海トラフの巨大地震が2030年代に起こるのではないかと考えられています。

5.内陸部の断層型地震に関して、過去111年間、すなわち1883年から1994年までの国土地理院の測地測量データを見ますと、近畿地方では、東西方向に年間10のマイナス7乗の割合で歪が蓄積されています。10のマイナス7乗とは、100kmの距離が1cm変化するということです。地殻を構成する岩石に蓄えられる歪の限界は、10のマイナス4乗ですから、年間10のマイナス7乗の割合で1000年間、押していくと10のマイナス4乗になります。つまり、歪が逃げなければ、早くて1000年に1度、同じ場所で地震が発生することになります。

6.この図は、いま原子力規制委員会委員長代理の島﨑邦彦さん達が調べた「過去500年以内に西日本で活動した活断層」という図です。過去500年以内に活動した活断層は今後100年間には動かないということで、この7つの活断層は当面、気にしなくてもよいだろうということです。それを除外したとしても、この地域にはまだ100を超える活断層が見つかっており、そのどれかが明日にでも動くかも知れない。京都付近だって、若狭湾だって、安全とは言えない、というのがこの図です。

7.京都は、ほぼ150年~200年の間隔で直下型の内陸断層地震が起こって、大きな被害を被っていますが、一番最近の京都の被害地震は1830年の文政京都地震(M=6.5)です。それ以来180年過ぎて、ぼつぼつ危ないかな、と思っていた矢先に東北地方太平洋沖地震が起きました。この図は、京都府の福知山と滋賀県の彦根のほぼ東西に100km離れた2つの点の間の距離変化を示したものです。距離が短くなればこの間は縮みの変化で図の下向き、距離が長くなれば伸びの変化で上向きになります。ここが2011年3月11日の東北太平洋沖地震ですが、それまではずっと年間1cm弱の割合で縮んでいました。1cmは100kmの7桁目ですから、年間10のマイナス7乗に近い割合で歪が溜まっていました。この傾向は明治以降の測地測量データを通して、大体一定です。ところが東北の地震で、ずっと縮んでいたものが、一瞬、逆方向に伸びました。2年以上経った今でも、まだ地震前の状態に戻っていません。地震直前の状態に戻るのにはまだ1年以上かかります。2011年の3月の始めに、「明日にでもあぶないかな?」と思っていたのですが、東北の地震の影響で歪の蓄積が少し戻りましたので、京都付近の被害地震の執行猶予の期間が少し延びました。しかし、大きな歪が解消したわけではありませんので、要注意なことには変わりありません。

8.中央防災会議防災対策推進検討会議の下に設置された「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ」は南海トラフで巨大地震が起きたときの被害想定をやっていますが、この全範囲が一度に割れたとしても、若狭湾周辺への影響は、地震動が震度5弱から4程度、大津波は日本海側に廻ってこないということで、原発への直接の影響は考えなくてもよいでしょう。しかしですね……

9.南海トラフの巨大地震の前後に日本海側の地震活動は活発化します。1944年12月7日にマグニチュード7.9の東南海地震、1946年12月21日にマグニチュード8.0の南海地震とこの地域で海溝型の大地震が相次いで発生しましたが、その約20年前に、北但馬地震、北丹後地震の直下型地震が起こり、東南海地震の1年前にはマグニチュード7.2の鳥取地震、南海地震の1年半後にはマグニチュード7.1の福井地震が起きています。次の南海トラフの巨大地震は2030年代にも起こると考えられていますので、もうぼつぼつ日本海側の地震活動が活発化することが懸念されます。

10.若狭湾の原発の周辺にも活断層が見つかっていますが、この辺は、前回の南海トラフの巨大地震のときには動いていません。周辺の北但馬、北丹後、鳥取、福井で地震が起きました。そこで、前回は空白域だった若狭湾のあたりの活断層が次の南海トラフの地震と連動して動くのではないかと心配されます。直下型地震は活断層が見つかっていないところでも起きています。例えば2000年10月6日にマグニチュード7.3の鳥取県西部地震がありましたが、事前に活断層は見いだされていません。そこで、既存の活断層にとらわれずに空白域の若狭湾周辺は警戒しなければならないと考えます。

11.1つ。「直下型地震で埋まっていた石が飛んだ」という話をしておきます。京大防災研の黒磯さんらが見つけたのですが、マグニチュード6.8の1984年長野県西部地震のときに、1km×3kmという狭い範囲ではありますが、埋まっていた石が飛びました。単に置いてある石なら、地球の重力加速度(980ガル)を超える地震動の加速度が働けば、浮きます。しかし、埋まった石が飛ぶためには、もっとずっと大きな加速度が働かなければなりません。黒磯さんらの計算と実験の結果では、この埋まっている石が飛び出すためには15000ガル以上の加速度が働かなければならない、ということです。実に、地球の重力加速度の15倍です。関電は2011年10月28日に原発耐震性評価を提出し、そこでは、大飯原発3号機の場合、これまで想定してきた地震の強さ(700ガル)の1.8倍の1260ガルにしたからもう大丈夫と言っています。しかし、非常に局所的ではありますが、マグニチュード6.8の地震で今の関電の基準の10倍以上の加速度が観測された例があるので、とても私は安心できません。日本のただ1カ所稼働している大飯原発が停止するまで、私は不安でたまりませんので、その精神的苦痛の慰謝料を請求します。

12.関西電力の初代社長の太田垣士郎(おおたがき・しろう)さんは、戦後の電力不足事情をいち早く見抜き、大規模な水力発電所の建設に踏み切り、難工事の末、黒部川第四発電所いわゆるクロヨンダムを完成させたサムライです。後任の芦原義重(あしはら・よししげ)さんは、水力発電の開発はもう限界である。資源の乏しい我が国では、火力発電より原発に頼るべきだ、ということで、原発の推進に踏みだしました。当時、使用済み核燃料などの未解決の問題がありましたが、やっているうちに、2~30年もすれば、科学技術の進歩でこれらの問題はすべて解決するはずだと言ってました。太田垣社長は経済学部出身ですが、芦原社長は工学部出身ですから、科学技術の発展を信じていたのだろうと思います。私も当時、地震予知を目的とした地殻変動の研究を始めたところで、「2~30年もすれば地震予知が可能になる」と思ってやっていましたので、芦原社長の考えに疑いを挟まず、関電が美浜に最初の原発を設置しようとしたとき、その炉心予定地の地盤調査に協力しました。一部の報道で、私が美浜の原発設置に「お墨付き」を与えたと書いてありましたが、私は当時、駆け出しの研究者で、データ取得に協力はしましたが、とても「原発設置ゴ―」の「お墨付き」を与えるような立場ではありませんでした。そして40年以上経って、使用済の放射性廃棄物をどう処分するか、いまだに解決していません。残念ながら、地震予知もいまだにできていません。そして2011年3月の東北地方太平洋沖地震と福島原発の事故です。福島原発の事故では、ハイテクの粋を集めたはずの原発ですが、それを扱うのは人間です。立っていられないほどの激しい地震動に襲われたときなど、人間は訓練時のように冷静に対応できず、操作ミスをしてしまうことは、福島第一の事故調報告を読んでも明らかかです。今の関電社長の八木誠さんにお願いしたいことは、40年以上経っても使用済の放射性廃棄物の処分方法がきまらないことや、福島第一原発の事故は、震災・津波・人災の複合災で、地震国ニッポンにおいては、この事故が特殊なケースでなく、どの原発も同じような危険性を孕んでいることをしっかり認識していただき、歴代社長のように長期的視野に立って、子や孫の代に負債を残さないために、脱原発に向って進んでいただきたいと考えます。