◆第1回口頭弁論 原告弁論・意見陳述
  第3-1 避難状況と2年後の現在の状況

三上侑貴弁護士(京都脱原発弁護団)

  • 黒丸は添付パワーポイントによる。
  • 原告団Webチームより:パワーポイントのデータは著作権の関係で掲載していません。

1 事故直後の状況

●海洋汚染の動画

海洋汚染の状況を予測した動画をご覧ください。2012年3月の段階でも、非常に広範囲に海洋が汚染されていることが分かります。福島原発事故により、海洋に流出した、あるいは意図的に放出された汚染水に含まれる放射能は、4700兆ベクレルを超え、周辺海域を汚染したことで国際的にも被害を及ぼし、大きな問題となりました。

●陸上の汚染の図

また、福島原発事故により、大量の放射性物質が大気中に放出されました。東電によれば、事故直後の数日間は、毎時2000兆ベクレル、4か月を過ぎた7月下旬~8月上旬においても、毎時2億べクレルという大量の放射性物質の放出が継続していました。

●ヨウ化カリウムを飲む写真

福島原発事故から放出された放射性物質により、住民が被曝した可能性が高いことから、東日本大震災の翌日である2011年3月12日、福島県川俣町では、避難した40歳未満全員が甲状腺がんを防ぐヨウ化カリウムを服用することとなりました。

●被ばく検査を受ける写真

また、3月14日から同年4月14日までに、避難住民は被曝の有無を把握する検査を受けることを余儀なくされました。

放射性物質の危険性にかんがみ、政府や自治体は、福島原発周辺の自治体に避難指示を行いました。福島原発事故による避難区域指定は、福島県内の12市町村に及びました。

しかし、東電が3月11日15時42分に10条通報を行い、16時45分に15条報告が経済産業大臣、福島県、立地県に対して通知され、19時3分には国から原子力緊急事態宣言が発せられましたが、翌12日朝に10キロメートル避難指示が発令されるまで、住民の原発事故に対する認知度は全般的に低い状態でした。

●避難する写真

福島原発事故翌日までに避難指示は3キロ圏、10キロ圏、20キロ圏と繰り返し拡大され、そのたびに住民は、不安を抱えたまま、複数回の避難を強いられ、長時間移動することを余儀なくされました。その中には、後に高線量であると判明する地域に、それと知らずに避難した住民もいました。この間、住民の多くは、福島原発事故の深刻さや避難期間の見通しなどの情報を含め、的確な情報を伴った避難指示を受けることができず、ほんの数日間の避難だと思って半ば「着の身着のまま」で避難先に向かい、そのまま長期の避難生活を送ることになり、生活基盤は崩壊しました。

●患者の避難の写真

20キロ圏内の病院や介護老人保健施設などでは、避難手段や避難先の確保に時間がかかり、避難を待つ間体育館で待機していた重篤患者に、発熱、低酸素血症など、明らかな容態の悪化がみられるなど、過酷な状況が続き、3月末までに少なくとも60人が亡くなるという悲劇も発生しました。

●避難を待つ患者の写真

特に、避難指示を受けた福島県大熊町の双葉病院には3月14日時点で病状の重い患者146人が残されていましたが、避難を余儀無くされ、14日と15日に自衛隊によって3回にわたる搬送が行われましたが、結局21人が搬送中や搬送後に死亡しています。

●双葉町住民の避難写真

双葉町民は、3月19日に役場機能自体を埼玉県さいたま市に移し、3月30日から31日にかけて、埼玉県加須市に再び役場機能を移さざるを得ませんでした。それに伴い、双葉町民1400人以上が、旧騎西高校避難所で暮らすことを余儀なくされました。

●避難区域の図

3月15日には、20~30キロ圏内の住民に屋内退避が指示され、3月25日には、同圏の住民に自主避難が勧告されました。政府は、住民に判断の材料となる情報をほとんど提供せず、避難の判断を住民個人に丸投げし、より一層の混乱を招いたのです。