◆原告第2準備書面
 第3 日本及び近畿地方(特に日本海側)における津波

原告第2準備書面 -大飯原発における地震・津波の危険性- 目次

第3 日本及び近畿地方(特に日本海側)における津波

1 津波大国日本

 (1) 地震大国であることは津波大国でもあること

 津波は、主に海底での地震の発生による海底地形の急変によって発生するものであるから、地震が頻繁に発生するということは、当然津波の発生回数も多いということを意味する。実際、東北地方太平洋沖地震以降に限っても、国内では津波警報が3件、津波注意報が13件発令されている。
 また、気象庁の発表によると、日本で明治以降に大きな被害を発生させた地震で津波の発生を伴うものとして12件が挙げられている。例えば1896年の明治三陸地震では2万1000人を超える死者を、1927年の北丹後地震や1933年の昭和三陸地震ではそれぞれ数千人の死者を、近年の1983年の日本海中部地震、1993年の北海道南西沖地震でもそれぞれ100~200人の死者を出しているのである。特に、北海道南西沖地震では最大波高16メートルを超える津波が発生している。
 もちろん、津波による最も甚大な被害を発生させた地震が2011年の東北地方太平洋沖地震であることは述べるまでもない。次図は同地震での津波の高さに関する各調査の結果を取りまとめて表したもの〈東日本大地震で確認された津波の高さ 省略〉であり、次々図は気象庁の観測データを元に津波の高さを図示したもの〈津波観測状況 省略〉である。 このように、気象庁の観測でも16メートルを超える津波が発生しており、その余の調査では20メートルを超える津波が観測されているのである*19。さらに同地震では、海岸島から津波が内陸へ駆け上がる高さを示す「遡上高」において43.3メートルが観測されており、極めて広い範囲に津波が到達し、被害を発生させていたことが明らかとなっている。

 *19 ただし、気象庁の観測データは、釜石や大船渡、石巻、相馬など最も津波が高かった地域については「データなし」としてデータが得られておらず、16メートルを上回る津波が発生したことを否定するものではない。

 (2) 津波は日本海側でも発生すること

 プレート型地震によって津波が発生する太平洋側と異なり、通常は内陸型地震によって津波が発生する日本海側では津波が生じにくいといわれることもあるが、これは誤りである。津波が海底地形の急変によって発生するものである以上、そのような変化が発生すれば海陸のプレート境界でなくとも津波は発生するからである。

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2 近畿地方における大津波

 (1) 天正大地震による大津波

 一例として、1586年1月18日の天正大地震を挙げる(甲41)。
 内陸型地震とされる天正大地震の推定規模マグニチュードは7.9ないし8.1という大規模であり、震源域は、現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県に相当する広大なものであった。同地震により北陸、東海及び近畿に甚大な被害が生じ、地割れ、波、山崩れ、液状化現象及び家屋の倒壊が多数発生し、死者も多数出たと記録されている。琵琶湖では、現長浜市の集落が液状化現象により水没し、越中国では木船城が倒壊し、城主前田秀継夫妻外多数が死亡した。飛騨国では帰雲城が大規模な山崩れによって埋没し、城主内ケ島氏理とその一族が全員死亡し、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭っている。郡上では、奥明方(現群上市明宝)の水沢上の金山や60~70軒からなる集落が崩壊し、あたり一面の大池になったと言われている。その他、美濃の大垣城、近江の長浜城、三河の岡崎城及び伊勢の長島城が全壊、大破あるいは焼失したとされ、京都では三十三間堂の600体の仏像が倒れ、八坂神社が一部損壊、壬生地蔵堂等が倒壊などしており、大和では多門院築垣が倒壊したとされている。
 当時の文献(吉田神社〔京都市左京区所在〕の宮司・吉田兼見の手による歴史資料「兼見卿記」、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの「日本史」等)には、この天正大地震によって、若狭湾沿岸には大津波が押し寄せたことが記録されている(甲42)*20

 *20 これに対して被告関西電力は、ボーリング調査の結果、上記大地震の際の津波の痕跡は発見できなかったとしている。
 しかし、平成23年12月27日に都内で開かれた原子力安全・保安院主催の意見聴取会では、同調査における調査地点の妥当性や調査結果の持つ意味等について専門家からの意見が相次いだこと(甲44)や、産業技術総合研究所の岡村幸信脱断層地震研究センター長の意見(甲45-1,2)に照らせば、上記ボーリング調査の結果は天正大地震の際に大津波が若狭湾沿岸に押し寄せた事実を否定する根拠とはならない。実際にも、被告関西電力の行った若狭湾の津波調査に対しては、多くの専門家から批判が寄せられているところである(甲46-1,2)。

 (2) その余の大津波

 ア 例えば2011年4月29日福井新聞は、「福井県美浜町の常神半島東側に過去、大津波が押し寄せ、村が全滅したとの記述が『三方郡西田村誌』(1955年発行)にある。険しい断崖が連なる常神半島の東側には現在集落はないが、過去には『くるみ浦(久留見村)』と呼ばれる村があったとされる。25年前に美浜町内の民家で発見された、三方五湖やその周辺の集落を描いた江戸時代初期の絵図にも所在が記されている。西田村誌では『クルビ村』の項に『小川の浦の山を越した日本海岸を血の裏といい、そこには以前クルビという村があったが、ある晩村人が出漁中に大津波が押し寄せて、人社と寺と民家1 軒だけを残して全滅した』と書かれている。『小川』は常神半島西側の若狭町小川を指す。村が滅んだ時期は他の古文書の記載などから、中世とも江戸時代とも推測されるが具体的には不明で本当に大津波が原因なのかも分かっていない。」と報じている(甲43)。

 イ また、若越国境の関峠(佐田)には石の地蔵尊があり、これを「波よけ地蔵」という。昔、大津波があったとき、打ち寄せた津波が同地点まで到達したことの証である。

 ウ 佐田の東南にある乗鞍岳(標高650メートル)の中腹には、「のたくぼ」「のた平」という場所がある。「のた」とは「波」のことであり、そこには津波で逃げた人々が使用した粉引き用の石臼があるという。

 エ 古代の坂尻は数百戸の部落であったが、大津波のために海中に没して跡形もなくなった。この大津波のとき、坂尻の天王山(標高約180メートル)へ逃げた者は腰まで水に浸かり、山上の御嶽山(同約520メートル)へ逃げた者でも足が水に浸かったという。

 オ 京都府宮津市の天橋立の北端、籠神社の真名井神社の境内にある「真名井原波せき地蔵堂」には、「昔15大宝年間(約1300年程以前)に大地震の大津波が押し寄せたのをここで切返したと伝えられ、以後天災地変から守る霊験と子育て、病気よけの妙徳も聞こえる。」と案内板にて記載されている(甲47)。
 現地は海抜40メートルの地点であり、宮津湾の切りこんだ裏手に位置しており、このような地点まで大津波が押し寄せたことの証である。

 カ 舞鶴市史・通史編(上)には以下のような津波に関する記述もある(甲48)。
 「津波 地震によると思われる津波の記録が一件ある。
 寛保元年(一七四一)酉ノ七月十九日小橋村 野原村高浪痛家八拾軒内弐拾八軒ハ潰家依之ニ小屋かけ材木相願御公儀より願之通ニ被遺候縄四百二十束藁五千六百束ハ大庄や八組割ニ被仰付候 世間ニたとへ申様ニハ津浪と申候俄ニ出来申し浪差而大風も吹不申ニ出来申波ニ而候(『金村家文書』)  
 七月十九日大入(大丹生)村近所四五ヶ村津波打(『田村家文書』)
 同日、蝦夷松前領に大津波、死者1467人、流失家屋729戸に及んだ(『年表日本歴史』筑摩書房)とあり、日本海沿岸地方に大きな被害があったものと思われる。当時、このことを記録した人は、津波の起因を大風も吹かないのに、にわかにできる波としている。」

 キ また、2011年12月11日付読売新聞も、以下のように報じている(甲49)。
 「『丹後・若州・越州、浦辺波を打ち上げ、在家ことごとく押し流す、人死ぬ事数知らずと云々―』
 これは、戦国時代の京都の神主吉田兼見の日記『兼見卿記』の一節だ。 1586年の天正地震の際、大津波が京都から福井にかけて若狭湾沿岸を襲い、民家を押し流し、数え切れない死者が出たと記されている。
 しかし、400年以上前の記録のため、この津波の実態はよく分かっておらず、福井県の地域防災計画には反映されていなかった。東北地方太平洋沖地震を受け、同県は津波の被害想定の見直しを始め、『兼見卿記』などの過去の文献も調べ直している。
 過去の津波の記録は各地に残されており、今回の震災を機に再検証が進んでいる。慶長三陸地震(1611年)では、これまで信頼性が疑問視されていた資料があったが、今回の震災の被害状況などと照らし合わせると『十分信頼できる』という研究報告も出ている。
 同地震を調査している東北大学の蝦名裕一・教育研究支援者(日本史)は『古文書には、先人たちが大災害に直面しながらも、克服していく姿も記されている。復興という視点からも、様々な資料を読み直すことは重要だ』と話す。」

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3 若狭湾周辺で想定すべき大津波

 (1) これまでにも想定されてきた大津波

 北陸以西の沖合の日本海海底には、相当数の活断層が存在する。若狭湾の北~北北西の沖合の隠岐トラフ南東縁には全長80キロの北西-南東走向の逆断層群があり、この部分で地震が発生すると、比較的小規模であっても島根半島・隠岐諸島から能登半島までの広範囲で1メートルを超え、場所によっては2~3メートルを超える津波が押し寄せること、想定地震規模を大きく見積もれば広域に少なくとも4メートルを超える津波が押し寄せることは、既に予想されている(甲50)。

 (2) 東北地方太平洋沖地震を踏まえて想定されるべき大津波

 然るに、現時点で想定されている津波の規模は、大飯原発では1.86メートル*21にすぎず、一般的な予想を遙かに下回る高さでしかない。これは、一般的な予想に反する上に、津波が岬の先端部で高くなるおそれが高いという性質をも無視したものであって、著しく低いというべきである。
 しかも、東北地方太平洋沖地震では当初の想定を9メートル以上上回る巨大な津波が現に発生している*22のであるから、「既往最大」の考え方に立ち、大飯原発においても想定を遙かに上回る規模の大津波が発生する危険性を想定すべきである。

 *21 この点に関し被告関西電力は、「想定する津波高さを『T.P.+2.85m』と評価している」と主張する(答弁書26頁)が、根拠が何一つ示されていないことから、本書面では考慮しない。  なお、「T.P.」とは「東京湾平均海面(Tokyo Peil)」の意である。
 *22 福島第一原発を襲った津波は高さ15.5メートルのものであった(甲3・188頁)が、従前の土木学会の津波高さの評価値とこれに基づく東京電力の想定は5.7メートルにすぎず(同・85頁)、実際に発生した津波はこれを10メートル近くも上回る高さの津波であった。想定がいかに甘く、過小であったかを端的に基礎づける事実である。

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