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◆関西電力と地震研究者の“癒着”の指摘!
日本の地震研究のリーダー格であった東大名誉教授が
関電副社長の “激励と協力を賜って” 組織した「古地震研究会」で
若狭湾で巨大な地震や津波が起こったことはないとしている。
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日本で古い記録に残る大地震といえば、福島第一原発事故でも注目された貞観[じょうがん]地震(869年、『理科年表』でM8.3±1/4)が代表的だが、さらに古い地震の記録もある。その一つが、701(大宝[たいほう]元)年の大宝地震で、『続日本紀』に記述されている。震源は判明していないが、現在の京都府を中心とした日本海側の地域に津波の伝承が残っている。なお、701(大宝元)年には、持統天皇のときに大宝律令ができている。
『日本の地名 由来のウソと真相』(楠原[くすはら]佑介 著、河出書房新社)の中の、天橋立[京都府]◎天橋立という珍地名の謎を解く「沈島伝説」(p.124~131)という項目で、興味深い記載があった。
(以下、敬称略)
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◆沈島伝説と大宝地震
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- 『日本の地名』では、若狭湾に冠島(大島とも、標高170 m)、沓島(くつじま、小島とも、標高70 m)という二つの島があり、現在は2.6 km離れている。しかし、この二つの島は、もともとトンボロ(陸繫砂州、りくけいさす)でつながった一つの島だったのでは。伝承によれば、701(大宝元)年の地震により島が沈み、二つの島になったという。
- ただし『理科年表 2024』では以下のように記す。
丹波:地[ち]震[ふる]うこと3日。被害が不明なのでMも不明。藤原京では感じなかったらしい。若狭湾内の汎海[おおしあま]郷が海に没したという「沈島伝説」は否定されている。 - このように、現代の地震学では「沈島伝説」には根拠がなく、単なる伝説とされている。
- ただ、興味をひくのは、関電との関係にある。長年、日本の地震研究のリーダー格であった萩原尊禮[たかひろ]東大名誉教授は「古地震研究会」によって冠島沈島伝説などを検証し、『古地震 歴史資料と活断層からさぐる』(1982年、萩原尊禮編著、東大出版会)を刊行している。その研究会には、“畏友”の吉田登[みのる]関電副社長の “激励と協力を賜った”として謝意を呈している(『古地震』p.312 あとがき)。
- 『古地震』では、第Ⅱ部第6章「大宝元年の地震の虚像―若狭湾冠島・沓島の沈没」の中で「一 冠島沈没の資料吟味」「二 冠島の地学調査」で15ページにわたり、詳しく検証し、伝説に過ぎないとしている。
- また、大宝地震については結論として「局発地震であり…大きくみても北丹後地震より一階級小さいM6.5程度であろうか」としている。なお、北丹後地震は1927年、M7.3。
- 一方、『日本の地名』の著者は、その論理には問題点があると、以下のように指摘している。
- その問題点(1)…大宝地震の震源の位置は、冠島のすぐ西側とか南南西8 km地点ではなく、島の東18 kmの若狭湾断層群ではないか。なお、『日本の地名』の著者は「若狭湾断層群」としているが、これは大飯原発に近い海底断層のFO-B[エフオービー]、FO-A[エフオーエイ]断層のことで、陸域の熊川[くまがわ]断層に連なっている。
- その問題点(2)…天橋立をつくった大量の土砂は、いったいどこから運ばれたか、という問題。『古地震』は、一回の地震で島が60 mも沈降することはありえないというが、沈降したのではなく、若狭湾の二つの島の間のトンボロの土砂を津波が押し流したのではないか。『日本の地名』では「3.11の東北地方太平洋沖地震による大津波は、釜石湾口の水深60 mの海底に固定された津波防止用の防潮堤を根こそぎ覆していることからも、ありえないことではない。」としている
- その問題点(3)…『日本の地名』では、以下のように記している。「『古地震』第Ⅱ部第6章の執筆者3名の一人はほかならぬ関西電力建設部の課長であった。前記した “激励と協力”の内実を、私は知らない。だが、こういう現象は、われわれの社会では、通常 “癒着”と呼ぶ。」と。
なお、『日本の地名』の「『古地震』第Ⅱ部第6章の執筆者3名」の部分は、正確には、6章一の執筆者が1名、6章二が3名、というのが正確。後者の3名のうちの一人とは、同書の執筆者紹介から大長[だいちょう]昭雄とわかる。
また、大長昭雄は「関西電力建設部の課長」と記述されているが、当時「課長」であったかどうかは確認が取れなかった。
【参考】吉田登[みのる](1908~1999年)→こちら
1951年に関電の建設部土木課長となり、その後、建設部長、取締役建設部長、常務取締役、取締役副社長として、黒部第四発電所、その後は揚水式発電所の建設に関わった。萩原東大名誉教授が “激励と協力を賜って”と『古地震』(1982年刊)に書いた当時は取締役副社長。
【参考】大長[だいちょう]昭雄(1929~?)
1963年度土木学会・奨励賞を受賞「アーチダムの基盤内の浸透流に関する実験的研究」。1979年に地震学会講演予稿集春季大会で「大宝元年(701)の地震について–史科学, 地形学および地震学上からの考察」との論文がある(『古地震』と同じ4名の共著)。『古地震』の執筆者紹介によれば、ダム工学、地震工学を専門とし、関電の建設部副調査役のほか、大阪市立大非常勤講師など。
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◆『日本の地名』…「天橋立」と「浦島伝説」
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- 「天橋立」という地名は、若狭湾内にあって海に没したという「汎海[おおしあま]郷の土砂でできた橋立(水平に長く延びた地形)」のことではないか。汎海郷の「凡[おおし]」は官がつけた冠称で、「天橋立」とは「海[あま]郷の土砂でできた橋立」を意味するのでは。
- 伊根町には浦島太郎伝説に関係すると考えられる神社があり、巨大津波に襲われた歴史を物語るのではないか。「浦島伝説」は単なる伝説とは片付けられないものがある。
- ネットを検索すれば、Wikipedia(大宝地震)のほかにも、「丹後に伝わる津波伝承」「近畿北部に大津波“10m超”も(Yahoo!News.2024/11/7配信)」「天橋立・舞鶴大津波 史実か(京都新聞、福井原発訴訟(滋賀)支援サイト、甲第113号証)」などの記事がヒットする。
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◆若狭湾での巨大な地震や津波は否定できても、
関電と研究者の親密な関係は否定できない
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- 若狭湾には関電の原発が集中している。関電が、若狭湾では巨大な地震や津波が起こったことはないという主張のために、「古地震研究会」によって手を打っていることが分かる。関電建設部の土木課長、後に取締役副社長になった人物が、日本の地震研究のリーダー格であった東大名誉教授の“畏友”となり、“激励と協力”を惜しまなかった関係には、“癒着”と指摘される要素をうかがうことができる。
- 大宝地震が歴史的事実であったかどうか、どの程度の規模であったのか、若狭湾各地を大津波が襲ったのかどうか、などは、今は分からない。ただし、過去にM7クラスの地震がおこったことがないとしても、将来にも起こらないとは言えない。地震予知はできないのだから。日本海に「海域活断層」のリスクが大きいことは、2024年の能登半島地震でも明らかになっている。
- 若狭湾における過去の地震や津波は否定できても、関電と地震研究者の過去の親密な関係は否定できない。そして、関電は現在も、若狭湾やその周辺ではM7を超える地震はないという立場をとっている。
- しかし、もしも若狭湾のFO-B、FO-A断層とそれに連なる陸域の熊川断層、それらと共役[きょうやく]断層となる上林川[かんばやしがわ]断層などでM7クラスの地震が起こった場合、大飯原発の揺れの強さが現行の基準地震動以内に収まる保証はない。原発は「止める、冷やす、閉じ込める」ができなかった場合、どうなるか。福島第一原発事故が多大の犠牲の上に教えてくれている。原発の運転は、人格権侵害の危険性がある。
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