◆私たち原告の主張:ハイライト
 裁判官にのぞむこと

大飯原発差止訴訟(京都地裁)原告第29準備書面の第4より。
(2017年2月13日第14回口頭弁論)

傍観者ではなくプレーヤーとして

◆元最高裁判事、故中村治朗氏は、昭和43年11月、司法研修所の判事補実務研究で行った講演「傍観者としての裁判官」(司法研修所論集 1969年9月)で、次のように語っている。少し長くなるが、引用したい。

【以下,引用】

■ 思うに、裁判所が、社会的葛藤の舞台において、これらの葛藤の直接の当事者からある程度の距離を保つ地位にみずからを置き、その意味である程度傍観者的立場をとらなければならないことは、おそらく誰しも異論の無いところでありましょう。しかし他面において、裁判所ないし裁判官があらゆる場合に完全なる傍観者として終始することができず、またそれが許されないこともまた、やはりこれを認めざるを得ないのではないかとわたしは思います。

■ 裁判官は、ある場合にはサッカー試合のレフェリーのように競技ルールに従って笛を吹かなければならない場合もあるでしょうし、社会的葛藤の舞台においてそれ自身社会的価値の実現のために積極的に機能しなければならない場合もあると思われるのです。問題は、いかなる場合に、いかなる程度まで傍観者としてとどまり、いかなる場合に笛を吹き、いかなる場合にいかなる形でみずからもプレーに参加するかということであります。

■ そしてここに、大は基本的なフィロソフィーそのものの対立から小はその具体的場合における適用についてのそれに至るまで、様々な見解の相違が生ずるのではないかと思うのです。しかも、わたしのみるところでは、この場合、いずれのフィロソフィーが正しく、いずれの適用の仕方が妥当であるかについて、客観的な判定のきめ手がなく、しかもその当否自体時と場合によって必ずしも同一ではあり得ないと思われるのであります。

■ 例えば、ホームズの司法的自己抑制の理論は、かれの時代においてはきわめて適切であり、その後における憲法解釈や違憲審査に関する理論の発展にも大きな足跡を残しました。しかし、ホームズと対蹠的に、行動人であり、すぐれた政治家であったジョン・マーシャルは、創造的な憲法解釈の展開によってアメリカの連邦国家の確立や産業資本主義の発展を助けたのです。

■ 二人とも、それぞれの時代の要求にマッチした気質・性格と天分の持主であり、そしてそれを存分に発揮してそれぞれの時代の要求に沿う理論を展開し、裁判活動をしたわけであります。そしてそれが、歴史の評価において、かれらが偉大な裁判官とされるゆえんなのです。

■ してみると、裁判官として偉大たりうるためには、何よりもまずそのような時代の要求に対する深い洞察とそれに基づく実践が必要であるといわなければならないようです。しかし、実をいえば、何が時代の要求であるかは、その時代のその社会に生きる者にとっては最もつかみにくい問題なのでありまして、現代のような対立と変動のはげしい価値状況の下では特にそうであると言ってよいでありましょう。理性的な人々の間でも見解がわかれるような基本的問題については、わたしたちは、究極的には自己の採る見解の正否を歴史の審判に賭けざるをえないものであるかも知れません。

■ そこに、現代に生きる裁判官にとって最大の悩みがあるとわたしは思います。このような悩み、このような問題に対して、いかんながら、わたしはなんら提示すべき解答を持ちあわせておりません。ただひたすら次のような考え、信条、願望といったものにすがりつくのみです。

■ すなわち、いろいろな条件の制約や人間としての認識の限界の下においても、なおかつ不断の勉強と思索、討論と自己反省の過程を経ることによって、自分の認識や判断の軌跡が多少とも正しい方向へ近づきうるという可能性を信じて努力することが唯一の進むべき道であるということ、そして特にわたしたち裁判官にとっては、それは一種の道徳的な義務であるとすらいいうるのではないかということ、これであります。

【以上,引用】

◆ここでは、裁判官が裁判活動をするうえで、裁判官には、時代の要求に対する深い洞察とそれに基づく実践が必要であると強調されている。福島第一原発事故によって露わになった原発事故の本質は、この法廷において、宮本憲一名誉教授が述べたように、足尾銅山事件以来最大の公害事件であると言うことにあるが、それは福島第一原発事故が筆舌に尽くしがたい途方もない人権侵害事件であることをも示している。

◆本日相代理人が述べた、原発コスト安価論の欺瞞、そこから見えてくる原子力賠償法体系の崩壊、また原発開発を担ってきた世界及び日本の各社の原発事業からの撤退、逃走、そして原発事業自体の崩壊の予兆が示すものは、原発の再稼働の不可能性はもちろん、原発そのものが、もはや人間の手によってコントロールすることができない存在になってきていると言うことである。

◆また、本日詳しく述べたように、現在の技術は、人間社会と自然環境に対して致命的かつ不可逆的な損害を齎す原発に代わる、安全なエネルギー、再生可能エネルギーの創出に成功し始めている。いまや時代は、原発を廃棄し、再生可能エネルギーによる社会の構築を図ることを求めていると言って過言ではない。

◆本件を担当する裁判官に対しては、この時代の要求を見据えて、本件に正面から取り組んでもらいたい。元最高裁判事、故中村治朗氏が述べるように、本件は、「究極的には自己の採る見解の正否を歴史の審判にかけざるを得ない」問題の一つと言ってよいと思われるが、本件においてこそ、裁判官は、社会的葛藤の舞台において、社会的価値の実現のために積極的に機能し、自ら傍観者ではなくプレーヤーとしてプレーに参加することが求められていると確信するものである。

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