◆裁判官の交代に伴う弁論の更新,福島敦子さん(福島県南相馬市からの避難者)

被災と避難の実態(原告 福島敦子)

水は清き故郷(ふるさと)でした。
命がけで川へ戻ってくる鮭の躍動が、こどもたちに感動を与えてくれる故郷(ふるさと)でした。
たらのめや栗や、まつたけが季節の移り変わりを教えてくれました。
今は、除染が全く進まず、人間の住む世界と隔絶された世界が広がる故郷(ふるさと)になりました。
今まで癒しと恵みをもたらしてくれた私たちの故郷(ふるさと)の山や海に、何百年も消えることのない毒をまかれたのです。

私は、福島県南相馬市より避難してきた福島敦子です。

福島第一原子力発電所の爆発当時は、川俣町そして、放射線量が最も高く示された福島市に避難しておりました。当時は、なぜ近距離の南相馬市より線量が高いのか解りませんでした。
一度戻ろうと思った南相馬市は13日には市の境に川俣町の警察署員などによりバリケードが張られ、入ることができなくなりました。

2011年3月13日の夜、福島市飯坂町の小さな市民ホールの避難所には、800人以上の人が押し寄せました。地震のたびに携帯電話を手にする人々、消灯後の部屋がぼんやり青白く光ると、夜中なのに大きな荷物をもってせわしなく足早に出入りする人々が寝ている子の頭を踏みそうになります。放射能が多く降り注いだとされる15日には、仮設トイレまで雪をかぶりながら入らなければなりませんでした。毎日毎日外で遊べない子供たち。ボランティアの人に風船をもらった娘たちは次々に飛び跳ねては上手にパスしあいます。足元には、体を横たえている大人が数人いました。わたしは、一番年長の娘に今すぐやめるよう強く言いました。辛抱強い娘はこどもたちにそれぞれ家族のもとへ戻るよう告げると、声を殺して泣きました。

明け方のトイレには、壁まで糞便を塗りつけた手のあと。苦しそうな模様に見えました。
食べるものなどほとんど売っていないスーパーに何時間も並び、列の横に貧血で倒れている老女がいました。インフルエンザが蔓延した近くの避難所では、風呂に入ることができないため、温泉街までペットボトルに温泉水を汲みに行き、湯たんぽの代わりにして暖をとる人がいました。
ガソリンを入れるのに長時間並び、ガソリンを消費して帰ってきました。より遠くへは避難できない人がたくさんいました。隣のスペースに、孫にかかえられて避難してきた年老いた人は、硬い床に座っていることがつらくて、物資の届かない南相馬市へ帰っていきました。テレビで次々に爆発していく福島第一原子力発電所の様(さま)を避難所の人たちが囲んで観ている。毎日が重く張り詰めた空気の中、死を覚悟した人も大勢いた避難所の生活は、忘れられません。

2011年4月2日、私は娘2人を連れ、京都府災害支援対策本部やたくさんの友人の力を借り、ごみ袋3つに衣服と貴重品をつめて、京都府へと3度目となる避難をしてまいりました。
その時に、貴重品以上に大切なものが私たちにはありました。『スクリーニング済証』というものです。

これを携帯しなければ、病院に入ることも避難所を移ることもできませんでした。私たちは、被ばくした人間として、移動を制限されていたからです。また、この証明書は、外部被ばくに限られた証明書であって、内部被ばくの状況は今もわかりません。今現在、誰もわかりません。これは、広島長崎の原爆被害、チェルノブイリの症状でも明らかなように、血を受け継いでいくものであり、永遠の苦しみとなることはゼロではないからです。

到着は夜でした。翌朝からは、京都府災害支援対策本部の方の案内で居住地を決めたり、娘2人の学校の手続きをしたりしました。2日後に、始業式がせまっていました。
40歳の2人の子を持つ女性として、就職活動も始めなければなりませんでした。時給800円の6ヶ月期限の事務の仕事にかろうじて就くことができました。

学校では、名前がふくしまということもあり、『フクシマゲンパツ』とあだ名をつけられたこともあった娘ですが、気遣ってくださる先生方、たくさんの気の合う友達に恵まれ、持ち前の明るさで乗り切りました。さよならを言う間もなくバラバラになってしまった南相馬市の友達には、避難所の様子や仮の校舎で学ぶ姿をテレビの報道で見つけては、元気をもらっているようでした。
私たちの暮らしは、その日その日を精一杯『生きる』ことで過ぎていきました。

あれから3年以上たった今、福島第一原子力発電所の状況は収束せず放射能が放出し続けています。なぜ事故が起こったのかの具体的な理由も責任も、誰一人問われることなく、ただ被災した人々は日々の生活に疲弊し、家族の崩壊と向かい合っていかなければならなくなりました。除染が進まない避難指示区域の解除をされても、家はすでにすさみ、なじみの店はありません。孤独死や、自殺する人を耳にすることが増えました。子供たちの声も聞かなくなりました。私たちが今、福島県へ帰ったとしても、元の街にはもう戻らないのです。

大飯原発の再稼働は、関西電力の経営努力の怠慢さも浮き彫りになり、地元の人々の不安と日本国民の原発に対する懸念の声を全く無視した人権侵害であり、日本最大級の公害問題であります。

司法は、この日本国民の大きな民意を水俣裁判と同様、50年以上も放置するおつもりでしょうか。この民意は、一過性のものだとお考えでしょうか。いったいどれほどの人々が苦しめば、真剣に向き合ってくださるのでしょうか。

本日、ここに私の実家の庭の土を持ってまいりました。子供のころにシャベルで穴を掘ったり、イチゴを摘んだり、母は長い年月をかけてコケを育て、灯篭の上にも珍しい種の苔が生える自慢の癒しの日本庭園でした。そのコケをはぎ、むき出しになったこの土を、京都・市民放射能測定所で測定したところ、放射性セシウム濃度は、1m2あたり93万ベクレルでした。チェルノブイリ被災者救済法では移住必要地域にあたるレベルです。ここが、チェルノブイリのある地域なら、母たちは移住しているはずであります。

裁判長、こどもを守ることに必死な、懸命な母親たちをどうか救ってください。
こどもたちに少しでも明るい未来をどうか託してあげてください。
私たち国民一人ひとりの切実な声に、どうか耳を傾けてください。
大飯原発の再稼働は、現在の日本では必要ないと断罪してください。
もう、私たち避難者のような体験をする人を万が一にも出してはいけないからです。
司法が健全であることを信じています。日本国民は、憲法により守られていることを信じています。

第4回/福島さん陳述書添付資料201405201013[483 KB]