◆原告第46準備書面
大飯原発1・2号機の廃炉決定について

原告第46準備書面
大飯原発1・2号機の廃炉決定について

2018(平成30)年1月15日

原告第46準備書面

 新聞報道によれば、2017年12月22日、被告関西電力は、大飯原発1・2号機の廃炉を決定したとのことである。この2つの原発は営業運転を始めて約38年を経ており、運転期限は2019年迄の、老朽原発である。老朽化した原発が内包する危険性に対しては、市民科学者として原発問題に取り組んできた高木仁三郎が、阪神大震災後の原子力関係者の不誠実な対応を批判し、1995年「日本物理学会誌」に「核施設と非常事態」という論文を発表して、老朽化した原発の危険性を指摘している。

福島第一原発事故後、原発をめぐる政治、経済、社会、国際的潮流は激変し、原発の運転を維持するコストに対する見方も著しく厳しくなった。

このような老朽原発が内包する危険性と、激変した全体的な環境の下における原発運転の経済性を総合的に考えると、被告関西電力の大飯原発1・2号機の廃炉は、冷静に見れば避けられない判断であったと考えられる。脱原発の動きは、世界的にもわが国においても大きい潮流になっている中、今回の被告関西電力の廃炉決定は、それに掉さすものである。

しかし、今回の廃炉決定は廃炉のほんの始まりにすぎない。現実に廃炉となる迄には長い時間を要する。その間、当該原発は、原子力の持つ危険性を内に蔵した状態が続く。当面の問題としても、使用済み燃料処理の問題が立ちはだかる。使用済み燃料プールは、使用済み燃料が全て搬出される迄、冷却を続けなければならない。その間プール隔壁の安全性を十全に保たなければならない。廃炉となり、電気を生み出さない無用の長物と化した施設に対して、被告関西電力は、きちんとした安全対策を講ずるであろうか。経済性に合わないとして廃した原発に対して、本当に安全のために必要な費用を注ぎ込んでいくであろうか。電気を生み出す3・4号機の維持管理に意を払うあまり、1・2号機の安全対策はおろそかになるのではないか。また使用済み燃料の保管場所や保管方法をどうするのか。さらに最終処分をどこでどのようにして実施するのか。最近の新聞報道では、被告関西電力は、使用済み燃料の中間貯蔵場所として青森県むつ市を候補としたが、むつ市長は、この被告関西電力の一方的な発表に対して強く拒絶の意を表明している。まして最終処分場については、全く決定される見通しが立たない状況にある。したがって、大飯原発1・2号機の使用済み燃料の危険性を内包したまま、廃炉の具体化を進めざるを得ないのである。稼働しなくなった施設の朽廃は急激に進むことは容易に予想される。被告関西電力は、大飯原発1・2号機の、廃炉決定後の、廃炉に向けての全工程を関係諸機関のみならず、当該原発によって危険にさらされる可能性のある原告らを含む全ての住民に対して、可及的速やかに明らかにする義務、少なくとも責務がある。原告らは、被告関西電力に対して、大飯原発1・2号機の廃炉に向けての全工程の内容を明らかにすることを求める。その内容の開示は、原告らに対する当該原発の危険性を判断する上での必要不可欠な事項というべきだからである。

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 原告らは、第44準備書面において、被告関西電力が提出した丙28に対して、厳しい批判を展開した。被告関西電力は、大飯原発3・4号機の地域特性の調査として当然になすべき重要な調査を懈怠しているばかりか、実施された調査結果において、科学技術の見地からして、許されないデータ無視、あるいはそれらを著しく歪めたことを行っていると批判した。

さきに挙げた高木仁三郎は、「原発事故はなぜくりかえすのか」(岩波新書2000年12月20日発行)において原発現場における隠蔽・改ざん・捏造について取り上げている。同書において、著者は、1991年以降2000年までの間の「主な隠蔽・改ざん・捏造」を一覧表として揚げている。そして、高木は、改ざん・捏造と技術者・技術の関係について、要旨以下のように考察している。「改ざんは技術にとってはあってはならないことで、技術からの逸脱である。データのその後の解釈については、人によってはねじ曲げて解釈することがあったとしても、最初に観測した生の数字を書き換えるということは、それをやってしまったら技術というものが存在しなくなる、いわば基礎の破壊である。だから、改ざんが行われるようになってきたということは、それによって安全性が損なわれるというレベルのことにとどまらず、それ以前に技術者の基本的な倫理というものが問われる、最も根本的な問題である。社会的な正義を云々する以前の問題なのだ。観測したことに忠実である、自然の現象に忠実である、それが科学技術の基本だから、技術の倫理の基本にもその忠実さがなければならない。上記の諸事例の発生は、この技術の倫理の基本が崩れてしまったことを示しているのではないか」と。また、「捏造は、隠蔽と違って、技術者としては本質的にあるまじきことを行っている。もはや技術なし、技術者なしといっていいのではないか。技術というのは、自分で実際に計算した数字や実験的に確かめた数値に基づいて事を運んでいく。それを勝手に別の数値にすりかえてしまうようなことをやって平気である。これは技術の倫理、技術の公的性格という観点からは、到底許される行為ではない。その根本が全く台なしになってしまっている。そういう意味では、もはや技術なし、技術者なしといわれるような状況が1990年代半ばくらいから多発している」とも述べている。

そして、「こういうことがなぜ多発するのか」という問いを立て、それについて次のように答える。「技術を担当する個人が自分の仕事の公的な性格を見失っているということ、自己に対する検証のなさということ、自己に課すべき倫理規範を持っていないということ、さらにはアカウンタビリティが欠如しているということ、これらのことからして、隠蔽、改ざん、捏造等の嘆かわしい状況が生じている。少なくとも昔から科学者や技術者が持っていると考えられていた職業倫理が今は欠如してしまっている。データの改ざんや捏造は、科学と技術の前提を全くおろそかにするところに発している」のだと。

手厳しい批判であるが、数多くの隠蔽、改ざん、捏造の事例を前にすると、強い説得力を持つ主張である。丙28に対して原告らは、厳しい批判を展開し、その内容について信用性がないことを述べているが、その信用性を判断する上では、上記の高木の分析は極めて有用であると考える。裁判所に対しては、炯眼を以って、乙28の信用性の判断をして頂くことを強く望むものである。

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 技術者・科学者の倫理について論じたこととの関係で、原発訴訟における司法関係者の倫理についても触れなければ、倫理を真に自己のものとして受け止めていないのではないかとの批判を免れないので、以下、この点について本準備書面の最後に述べておきたい。

原発事故は巨大な人権侵害をもたらす。このことは、チェルノブイリ原発、福島第一原発の事故を経験したいま、それを否定することは誰もできない。このような人権侵害の事件が法廷に持ち込まれた場合、司法関係者はそれに対してどのように立ち向かうべきであろうか。この点を考える上で、次のことが参考とされよう。

アール・ウォレンは、1953年、アイゼンハワー大統領によって、カリフォルニア州知事から米国連邦最高裁長官に任命された。そして、この任にある時期、ウォレン・コートは、白人と黒人の分離教育は違憲と断じたブラウン対教育委員会事件、貧困者は、全ての重罪事件で、公費により弁護人を付されなければならないとされる契機となったギデオン事件、それを嚆矢とする一連の刑事司法改革判決等を生み出した。平等主義への強い志向、少数者保護についての積極的態度、米国社会の最も困難な問題である人種問題の解決に、行政部や立法部ではなく、司法部がまずイニシアティブをとったのであった。ウォレン長官は、退任直後、「ウォレン・コートは余りに早く進みすぎはしなかっただろうか」との問いに次のように答えた。「われわれは、われわれがいかに早く進むべきかについては何もいうことはない。われわれはわれわれのところへくるケースとともに進むのである。そしてケースが人間の自由の問題を持って、われわれのところにくるときには、われわれは弁論を聞き判決をするか、あるいはこれを放置して、社会の底にうずもれさせ将来の世代が解決するのにまかせるか、どちらかである。わが国においては、概していえば後者は余りに長くなされすぎたのである。」

このウォレン長官の見解は、原発をめぐるわが国の司法において深く心に止めるべきものと考える。原発について、わが国の司法は、実質的に司法判断を回避して放置し、社会の底にうずもれさせ将来の世代が解決するのにまかせてきた。福島第一原発は巨大かつ悲惨な事故を起こした。これは、司法が原発についての司法判断を実質的に回避して放置し、社会の底にうずもれさせ将来の世代にそのつけを回してきたからではないか。司法にも責任はないのか。これがこの訴訟に関係する全ての者に対して問いかけられていることと思われるのである。

女川原発事件の裁判長であった塚原朋一は、2011年3月11日、福島の原発が津波に襲われたとのニュースを聞いて、とっさに「女川、大丈夫か」と思ったという。そして次のように述べている。「一般的に裁判官は、ある判決を言い渡したとたんに、その問題への関心が薄れていく。二審判決が出ても、ざっと目を通すくらい。」しかし「わたしにとって、女川原発訴訟だけはそうはいきません」と付け加える。「この訴訟については、当時の自分に責任があるかどうかという問題を超えて・・・・・いや、責任があると思っても責任の負いようはありません。そうではなくて、これからも社会状況の変化を見届ける。社会に対してメッセージを出すべきものがあれば、こうして語る。自分の出した判決は正しかったのか、正しくなかったのかと考え続ける。そして、正しくないと結論づけたら反省する。遅すぎるかもしれませんが、そうするしかありません。法律家として一生背負っていく問題だろうと思っています」と。塚原にとっては「女川原発訴訟」だけは、その出した結論に対して、他の事件と異なり、「法律家として一生背負っていく問題」だと言う。そのとおりである。裁判官が原発の稼働を容認すれば、原発は数十年間にわたって稼働を続け、廃炉となってもなお危険を内包し続け、使用済み燃料の処理に至っては途方もない期間地球に負荷をかけ続ける。ある裁判官が原発の稼働を容認した場合、それを容認した裁判官は、その原発ともはや離れることができない。その意味で、「法律家として一生背負っていく問題」である。そのように考えてくると、司法関係者の責任の重さを改めて痛感せざるを得ない。規制委員会の適合性判断は、規制基準適合の判断にすぎず、安全を保証するものではない、と規制委員会委員長は繰り返し言明している。政府は、規制基準適合の判断は安全を保証すると、文字どおり議論を「捏造」しているが、安全性の判断を規制委員会はしていないのだから、その判断は最終的には司法が行うしかない。そして、その場合における司法関係者の責任は、当該原発が稼働し、廃炉しても存在するかぎりつきまとい続ける。裁判官を含む司法関係者の責任は、原発訴訟においては、格別に重いものがある。その責任を背負って原発裁判に関わることが倫理であるというべきであるだろう。

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 司法関係者の責任を考える上で、次の事例を挙げておきたい。周知のように、戦前治安維持法は暴威をふるい、戦争を遂行する上で重要な役割を果した。治安維持法は1925年に制定され、その後何回か改正されたが、1930年代後半に治安維持法を適用して摘発された宗教取締りにおいて、裁判所は特高警察・思想検察の作り上げた路線をそのままなぞったのである。治安維持法研究の第一人者である奥平康弘は次のように述べている(「治安維持法小史」1977年10月、岩波現代文庫所収)。「どの宗教団体についてもいえることだが、これらに治安維持法を適用させるのは、無茶なことであった。第一、かりにこれら団体の関係者が「国体変革」を意図したとしても、かれらの「革命」は、かつて治安維持法が問題とした日本共産党のそれと、よかれあしかれレベルがちがう。前者は、当局が認容するように「暴力革命」ではなくて「意識革命」であるにすぎない。宗教上の観念の世界の問題である。第二の問題も、大きい困難を包蔵していた。それぞれの団体が「国体改革」を目的とした「結社」の態をなしているかどうかである。

常識からみて、非常にはっきりしていることは、もともと治安維持法は、この種の宗教統制のために利用されることを念頭において作られていないことである。したがってたとえば、宗教上の観念の世界における「世直り」(天理本道)、「立替え、立直し」(大本教)、「ハルマゲドンの戦い」(燈台社)などの革命・変革の思想や、そのような宗教上の教義に応じた組織と活動には、治安維持法を適用することはできないと断言するのを、裁判所に期待したとしても、それはけっして、無理難題を期待することではなかったはずである。しかるに実際には、かず多くの類似宗教取締り事件のなかで、既述の大本教事件第二審の裁判所と、本書では詳しく言及できないが、のちの浅見仙作事件の大審院判決(1945年6月)のような例外をのぞき、裁判所は特高警察や思想検察のいうなりにしたがって、善良かつ真摯な宗教人に苛酷な刑を科して、あやしむところがなかった。」。裁判所は、特高警察、思想検察の走狗となったといって過言ではない。そのような体制維持のために強大な権力を行使し、戦争遂行の支柱のひとつとなったことは否定できない歴史的事実であり、その責任は重い。当時の裁判官の大勢は、特高警察、思想検察の走狗であった。その大勢に逆らって、裁判官としての職責を果したものは殆どいなかった。そのことが、事実として戦争遂行に対する加担となった。いま、原発訴訟をめぐる状況は、大きな岐路を迎えている。規制委員会の適合性判断を無批判になぞる裁判か、安全性(危険性)の判断を、裁判官として良心、倫理にしたがって行う裁判か。原発裁判はそのせめぎ合いの中にある。大勢に安住または埋没して司法自身の判断を放棄し、規制委員会の判断をなぞる司法は、歴史の審判に耐えることはできないだろうし、自己の判断を「一生背負っていく」こともできないと思われる。さきに技術者の倫理について指摘したが、その問題は、直ちに司法関係者の倫理の問題となってはね返ってくるということを肝に銘じて本裁判に関わっていきたいものである。

以上

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