◆9/14の第12回口頭弁論の報告
 ~救援新聞より

  • 救援新聞 京都版No.1283 2016年10月5日
    橋本宏一(日本国民救援会京都府本部 事務局長)

原発は美山の自然・くらし奪う

大飯原発差止訴訟第12回口頭弁論で陳述

  • 京都府などの住民3,086人が関西電力と国を相手に大飯原子力発電所1から4号機の運転差し止めと慰謝料を求めている訴訟の第12回口頭弁論が、9月14日、京都地裁(第6民事部合議A係・堀内照美裁判長)101号法廷で開かれました。法廷は柵内の弁護団に原告36人、満席の傍聴者(86人、外れた人は弁護士会館での模擬法廷を30人が傍聴)、関電や国の代理人などぎっしり席を埋めつくしました。

谷文彰,渡辺輝人弁護士が準備書面の要旨陳述

  • 最初に原告代理人の谷文彰弁護士が、第23準備書面の要旨陳述に立ち、熊本地震のようなマグニチュード7クラスの地震が連続的に発生した際の原発事故の危険性を指摘しました。原発は一度目で倒壊を免れた建物が二度、三度目に壊滅する熊本地震の事例を踏まえた設計になっていないこと、事前に観測された活断層よりもはるかに長いところで地震が発生していて、大飯原発の場合もこの危険があること(「想定外」の危険が常に存在する)、地震学者の島崎邦彦氏(元原子力規制委員会委員長代理)の指摘「活断層の長さから地震モーメントを予測すれば過小評価となる可能性」は実際に起きた地震の数値から証明されて、予測は3分の1から4分の1程度過小評価していた、これらの危険がある大飯原発の稼働は停止されるべき、と述べました。
  • つづいて渡辺輝人弁護士が第24準備書面の要旨を陳述。「被告関西電力らは、『想定外』を繰り返すばかりで、原告の新基準での原発の危険性の指摘に反論していない、外国でいくつもの危険を想定した基準をつくっている。また被告は避難計画に対しても一切言及していないが、これは許されない」などと主張しました。

美山町の栢下(かやした)壽(ひさし)さんが意見陳述

  • 最後に陳述した,原告の栢下壽さんは,(要旨)次のように述べ,傍聴席の拍手を誘いました。以下要旨。
  • 私は、南丹市美山町に76年住んでいる。町は大飯原発から20キロから30キロ圏内にあり、原発事故が起こった際の避難計画を市などが作成しているが、高齢世帯が圧倒的で、4000人もの住民をバスで緊急避難することなどとうてい不可能。冬の積雪、夜間などの危険、しかも緊急時の避難者の車の渋滞もある。自然環境に恵まれ、町は「京丹波高原国定公園」であり、町全体が『森の京都』の景観を生かした町づくりに取り組んでいる。国が重要建造物群に指定した『かやぶきの里』をはじめ観光名所には年間78万人が訪れる。この観光客をどうするのか避難計画はふれていない。SPEEDI(大気中放射性物質の拡散予測システム)の活用についても、ネットワークシステムを活用するとあるが、その計測データを住民に公表する保障はない。放射性物質のセシウムから身を守る安定用ヨウ素材にしても、全住民に届けるのは不可能。市の担当者に保管場所を尋ねたら把握していなかった。美山町は貴重な自然の宝庫、絶滅寸前の「ベニバナヤマシャクヤク」の増殖、保護にも取り組んでいる。京都大学芦生研究林もあり、京都府指定気象野生生物25種の半数近くが生息する。西日本でも有数の自然環境に恵まれた美山町を誇りに思っている。原発事故が起これば世界に誇るべき美山町の自然が失われてしまう。裁判所には、自社の利益のための再稼働ばかりを追求している電力会社を強く批判し、原発の運転を差し止めていただくようお願いしたい。

次回

  • 次回第13回口頭弁論は、11月28日(月)午後2時から(抽選のリストバンド交付は1時20分から)、同地裁101号法廷で。

報告集会で今後の進行,原告の拡大などを確認

  • 裁判終了後京都弁護士会館で開かれた報告集会では、竹本修三原告団長のあいさつにつづいて、この間の原告拡大の活動などについて吉田明生原告団事務局長が報告しました。今後さらに原告を拡大し、今年末には700人(現在123人)をふやしたい、原告1人がもう1人のつもりで拡大の協力をと呼びかけました。
  • 進行協議を終えてから駆けつけた弁護団も交え、裁判の内容や今後の進行について報告されました。裁判への質疑応答や、感想も語られ、出口治男弁護団長のあいさつで終了しました。

裁判所周辺を「脱原発」パレード

  • 裁判開廷前の昼休み、弁護団や原告団など51人は裁判周辺のパレードをしました。
  • 横断幕を掲げた、出口弁護団長、竹本原告団長を先頭に、ノボリにさらにサイドにも原発稼働反対の幕、ハンドマイクで市民に呼びかけます。「大飯は危険」「子どもを守ろう」「自然を守ろう」の声を響かせ、裁判所前、柳馬場通と進み、夷川通の家具屋街にもアピール、古い街並みの寺町通りでも出会う外国人観光客らにも訴えました。最後は丸太町通りで解散しました。