◆原告で,宮本憲一 元滋賀大学学長・大阪市立大学名誉教授(環境経済学)による意見陳述

予防の原則から運転停止を

福島原発災害は史上最大最悪の公害である。これまで日本史上公害の原点といわれた足尾鉱毒事件は鉱害によって農漁業に被害が発生しただけでなく、反対した谷中村が廃村にされ,流浪の民を出したことが、最も大きな悲劇とされてきた。今回の原発災害はそれ以来始めて2市7町3村の15万人を超える住民が放射能公害によって強制疎開に会い、その多くの人々が故郷に帰ることはできず、おそらく永久に廃止される自治体も生まれるであろう。これは水俣病など戦後の深刻な公害事件にもない足尾鉱毒事件以来の最悪の公害といってよい。このような原発の被害が続き、その全貌が把握できず、その原因の究明が終わらず、またその対策が汚染水防止や除染作業のめどが立たず、経済的被害の救済も始まったばかりの状況の下で、大飯原発の運転が再開されることは、環境政策の予防の原則から許されることではない。

予防の原則は1992年国連リオ会議で採択された「リオ宣言」の第15原則で採用された。「環境を保護するための予防的方策は各国により、その能力に応じて広く適用しなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きな対策を延期する理由としてはならない。」近年ではこの予防の原則がPPP(汚染者負担原則)や拡大生産者責任原則とともに、公害対策やリスク防止の基本原則となっており、欧米では具体的な適用がされている。最近の水俣条約{水銀使用禁止の国際条約}もその例であろう。大飯原発の運転再開は明らかに予防の原則を踏みにじる暴挙であり、再開の停止を要求する。

私は1964年に『恐るべき公害』(庄司光共著、岩波新書)を出版して以来環境問題を研究してきたが、その歴史的教訓と予防の原則に立ち、次の5点から、大飯原発の運転再開に反対である。

第1に原発事故は企業と政府が原発の安全神話を信じ、予防を怠った明らかな失敗で、いまだに放射能公害を規制できる法制や行政が確立していない状況の下で、今日の再開はさらに大きな失敗の繰り返しとなろう。1967年公害対策基本法ができる時に、学界だけでなく、政治の分野からも放射能汚染を公害に入れて規制すべきであるという声が強かった。国会では論議になり、政府も放射能汚染は公害として規制することは法案の中で認めたが、実際の運用は原子力基本法などの関連法に任せた。これは原発の安全を規制官庁から推進官庁にゆだねることになった。このことはその後も問題になり、1993年環境基本法制定の際も、野党の対案では、チェルノブイリ事故を踏まえ、原発の段階的解消が明文化されていた。しかし政府はこの要求を無視し、環境基本法でも公害対策基本法と同じ取り扱いをすることによって、原発の推進を進めた。環境科学の分野では、例えば、1971年から公害研究委員会(代表都留重人)が岩波書店から発行している雑誌『公害研究』の初期から、原発の導入はゲーテの小説『ファースト』のなかでファーストが魂を悪魔に売ったように、人間社会の安全を企業・政府に売りに出す『ファースト的取引』という批判をした。そして事故の起きるたびに原発の停止を要求してきた。これに対し「原子力ムラ」は安全性の神話を掲げ、政府はそれを信じてきた。確率論を土台に原発事故は飛行機の事故などと比べて、確率はゼロに近いので安全であり、エネルギー資源のない日本では原発は絶対に必要であるとし、電源3法などによる政策支援を行ってきた。これまでのスリーマイルズ島、チェルノブイリ、そして福島の事故に見るようにゼロではなく、大事故が一世代に一度は発生し、運転中の事故もかなりの頻度で、発生している。しかもいったん事故が起これば、健康・経済被害に加えて、コミュニティの消滅という取り返しのつかない被害が発生する。また放射能公害はストック(蓄積)公害であって、超長期にわたって被害が発生する。日本は災害多発国であり、中でも地震や津波・高潮は避けがたく、その正確な予測は困難である。つまりいつ起こっても不思議でない高度のリスクを抱えている。いったん事故が発生すればいま目の当たりに見るように膨大な未解決の被害が継続する。しかも放射能被害を公害として規制の対象にしたとはいえ、具体的な基準のための法律も規制組織も未整備である。もしも事故が発生すれば、関西1200万人の水源の琵琶湖の汚染は致命的な被害をもたらす。まだ大飯原発事故に備えた防備施設は完成せず、避難訓練も十分にはできていない。予防の原則からするならば、大飯原発の運転再開は中止すべきである。

第2はこれまで原発は他のエネルギーに比べてコストが安く、経済的に効率が高いとされてきた。しかし大島堅一の研究で明らかになったように、1970~2010年度平均の発電の実際コストは原子力が10.25円/KW時で、火力9.91円、水力7.19円よりも高い。直接コストが比較的安かったのは、これまで原発が政府から研究開発や立地政策について、優先的な援助を受けてきたためである(大島堅一『原発のコスト』岩波新書、2011年、P.112参照)。進行中の事故後の賠償や汚染排除・防止費、さらに放射能廃棄物の処理費などを加えるとさらに原発のコストは高くなるであろう。あえて再稼働せねばならぬ理由は、国民経済の問題でなく、関電など電力企業の問題である。

第3は原発を再稼働させなくても、経済は正常に動いている。夏の電力需要のピークも乗り切っている。これは節電が効果を上げたためである。まだまだ節電の余地はある。さらに原発の代替は最も安全で、環境への負荷の少ない再生可能エネルギーの開発によって可能である。日本は再生可能エネルギーの技術では世界のトップクラスだが、これまでの政府と電力業界の原発依存の政策のために実業化が著しく遅れ、エネルギー源の1%にしか達していない。この再生可能エネルギーの開発に当たっては価格支持制度だけではなく、分散する供給源が自立できるように発電と送電の分離が必要であり、9電力の独占体制の改革が必要である。供給主体をドイツの様に供給主体が協同組合や自治体(公社)となって、分権化して、地域に分散するシステムが必要となるがすでに飯田市などで始まっている。

第4に原発は放射能廃棄物の処理やリサイクリングが不可能あるいは著しく困難な産業であることだ。これは原発が科学技術的に致命的な欠陥を持っていることを示している。「トイレなきマンション」のようだという比喩はぴったりしている。ドイツの倫理委員会の原発廃止の最大の理由はこの放射能廃棄物の処理の困難と後の世代に半永久的に持続する危険性が倫理的に許せないということにある。仮に事故がなく、運転が安全だとしても、放射能廃棄物は10万年以上にわたって、被害を出す可能性がある。総合資源エネルギー調査会はバックエンドコスト(原発の解体・廃炉や放射能廃棄物の処理・保管にかかわる費用)を18兆8000億円としている。このコストが仮に電力費に算入できるとしても、放射能廃棄物が将来世代に及ぼす影響を無視することはできない。これは市場の論理で判断すべきことでなく、将来世代に対する責任の倫理の問題である。

第5に原発立地の市町村の経済・財政の問題である。原発立地が肯定される理由の一つは、過疎地域の振興における原発の役割である。田中内閣が電源3法を作った時に、立地反対の声を説得し、地元の地域開発にはあまり役に立たぬ危険施設を認める迷惑料として交付金制度が作られた。この交付金と原発の固定資産税が、街の経済・財政を膨張した。原発のエネルギーは大都市圏に送られ、地元は原発関連産業以外の地域開発は進まなかった。立地町村の産業構造は他の地域と比べると、3次産業に偏り、農漁業や製造業などは小さくなっている。固定資産税のうち最大の償却資産税は16年間で、ゼロになる。他方、財政が膨張した時代に作った施設の維持費が負担となり、財政は周期的に危機になる。このため、再び三度原発の誘致が行われた。他の国に例を見ないような、特定地域に原発基地が密集したのは、この原発による地域開発の構造にある。しかしこのような地域開発が、いつまでも持続できるわけはない。原発立地のような差別的な政策はやめ、持続可能な内発的な発展への模索ができるだけ早い機会に必要なのである。