◆第24回口頭弁論 意見陳述

太田歩美  近江裕之



口頭弁論要旨

原告 太田歩美

太田歩美 意見陳述[131 KB]

私は、太田歩美と申します。日本全国では、福島第一原発事故に関して1万人以上の方が国と東京電力への損害賠償を求める裁判を起こしています。私はそのうち大阪地方裁判所で提訴している集団訴訟の原告240名のうちの一人でもあります。近畿エリアでは、京都・兵庫・関西と3つの訴訟があり、合計すると500名以上の原告となっています。

福島第一原発事故により、原発から半径20キロ以内を中心とする地域が避難区域と指定されました。しかし実際には避難区域外の避難者がたくさんいて、いまだに避難を続けています。避難区域は、安全性が確認されないまま次々と解除されていますが、避難区域が解除されても避難者が戻らない状況が続いています。特に区域外避難者はほとんど賠償らしきものを受けておらず、そのような避難者が特に関西地方にたくさんいます。

福島第一原発が爆発した約8年前は,私は生まれ故郷である茨城県水戸市で、当時小学1年生の娘と、父、弟と4人で暮らしていました。

地震当初は、水道・ガス・電気とライフラインが全部止まり、食料やガソリン手に入れるために必死だったのですが、そんな中、偶然通じた知人からの電話で原発が危ないということを聞き、避難することにしました。知人からの電話では、アメリカは自国民で日本に滞在している人たちに80キロ圏内から避難するよう指示しているというのです。当時福島原子力発電所からの茨城県の我が家までの距離など知りませんでしたが、80キロなら我が家も距離的に近いと考えたからです。

家族内では父からは「政府が大丈夫と言っているのだから大丈夫だ。それなのに避難するというのであれば二度と戻ってくるな」と怒鳴られ、泣きながらの口論になりました。

地震・事故から6日後に私は娘と二人で鹿児島県に避難しました。放射能も地震もなく、水道水が蛇口から出て、ガスコンロの火も点き、夜も電気の灯りをともすことのできる安全な土地で数ヶ月暮らし、少し気持ちが落ち着いた後に、過去の放射能事故等について調べ始めると、いろんなことが分かりました。空気の汚染だけでなく、土にも放射性物質が落ちて染みこんでいくこと。その土で作られた農作物を食べると、それが体内から放射性物質を出し、内部被曝というものを受けるということ。原発事故後、政府が食品の安全基準値自体を上げたこと。その上げられた基準値をクリアした食べ物が流通していること。
仮にこれらのことが原因で将来病気になったとしても因果関係の証明は難しいでしょう。放射性物質は遺伝子に影響するので、娘が子どもを産んだとしてもその子にも影響があるかもしれません。

そのようなことを知ったため、茨城県には帰らず、長期避難することを決意しました。そのため、元の仕事は辞めざるを得ず、新たに仕事を探すため、大阪に避難先を変えることにしました。仕事のみならず、今まで茨城県で積み上げてきた人間関係も家も捨てざるを得ず、一度リセットしての、全てが一からのスタートです。生活を何とか立て直すために資格を取ろうと学校へ通ったり、そのために借金をしたりしているので、生活は今でも苦しいです。

茨城県に居たら、建てた家もあり、収入が少なかったとしても何とかやっていけました。それに、子どもが熱を出したりしたとき等、父や弟が私と一緒になって子どもを世話してくれていたので、私は外で働くことができていたのです。

何より、私の父や弟と日々の生活を一緒に過ごせないのが辛いです。事故当時小学1年生だった娘はもう高校1年生です。もうその時間は取り戻すことはできないことは頭では分かっていますが、私の子どもの日々の成長を、父や弟と一緒に見守り、助け合いながら過ごしたかったです。茨城県のあの家で父や弟と暮らす日々に戻りたいです。朝「いってらっしゃい」「いってきます」と互いに言い、夜には晩御飯の食卓を4人で囲み、その日あったことをそれぞれ話し、その晩のお風呂に誰が先に入るか話したりするような、普通の生活に戻りたいです。そんな些細なことと思われるかもしれませんが、けれども自分にとってはとても大事な日々の生活でした。それらが奪われたことがただ一重に哀しいです。
また、大阪では茨城県からの避難について理解されませんでした。大阪の人に「茨城県(からの避難)なんて、福島(県)にのっかってるだけやろ」と言われたこともあります。なので、自分が原発事故の影響を恐れての避難しているということは、普段の生活では言わないできました。思い出して説明するだけで精神的に辛くなるし、説明したところで、理解されるのが難しいということは分かっているからです。

福島県と茨城県との県境に壁があるわけではないです。現実に原発事故当初に何の被害もないと言われていた茨城県の北茨城市では、1592人に1人と小児甲状腺ガンの発生率が高いことが分かりました。原発事故前までは、100万人に0~3人の発生率と言われたにもかかわらずです。事故後は桁違いの発生率です。それでも公式には「甲状腺ガンの原因については福島原発事故の放射線の影響は考えにくい」と発表されています。このような発表を私は信じることができません。現に私と子どもは甲状腺検査でA2という判定が出ており、定期的に検査を受けています。

さらに茨城県の実家で使われていた掃除機のホコリを採取して専門家に測定してもらった結果、セシウム137が1キログラムあたり2830ベクレルという高い数値が出ました。事故から7年経った時点の昨年のことです。その土地に父や弟、親類縁者、友人たちが住んでいることを思うと、彼ら彼女らの身体が心配です。自分たちだけ逃げて本当によかったのか、もっと粘り強く説得すべきだったのではないか、後悔の気持ちがぬぐいきれません。

私の現在の避難先である大阪市は、大飯原発から95kmです。

茨城県にある私の家と福島原発との間は130kmでした。

皮肉なことに現在の方がむしろ8年前より原子力発電所との距離は近くなってしまいました。距離が全てではないと分かっていますが、近いのはやはり怖いです。

もし大飯原発で何らかの事故が発生したら、また避難しなければならないでしょう。しかしもう今の私には新しい土地でやり直す気力・体力はありません。いくら健康が大事と言ったって、人間はそれだけで生きていける訳ではないことを身をもって知りました。原発事故以前に母が難病を長く患ったうえで亡くなっていることもあり、健康はお金では買えないし、万が一病気になって苦しい思いはしたくないし、子どもにも痛い苦しい思いはさせたくないと思って、避難を決意しました。「健康を守るための避難」という自分の選択は間違っていなかったと今では思っています。

しかし、縁もゆかりもない土地で一から始めることの辛さは、もう十分味わいました。

健康であったとしても、お金がない、仕事がない、頼る知り合いもいない生活がどんなに不安で心細いかを、知りました。

自分は一生そこに住むつもりであった場所に帰りたいです。しかし放射線管理区域以上の値が出ている土地には、帰りたくてもやはり帰れません。

一度ばらまかれた放射性物質を元に戻すことはできないです。自分たちで管理制御しきれないものを持つべきではないと思います。

裁判所には福島の原発事故の結果、福島県のみならず近隣の自治体にも被害があったことを知って頂きたいです。そして、知った以上、このような思いをする人を二度と出さないために今後どうしたらいいかを一緒に考えてほしいです。それは原子力発電所が54基もある日本ではないはずです。



口頭弁論要旨

2019年8月1日
近江裕之

近江裕之 意見陳述[118 KB]

私は京都府与謝郡与謝野町に住み、京丹後市弥栄町にある府立峰山高等学校弥栄分校で教員をしている近江裕之と申します。私が住んでいる与謝野町石川は、大飯原発から40乃至50キロに位置しており、また勤務している弥栄分校は、大飯原発から52.7キロ、高浜原発からは40.8キロに位置しています。今日は、高等学校で日々多くの生徒を前にしている教職員という立場から、大飯原発の運転差し止めを求める意見陳述をします。
京都府教育委員会が平成27年4月に策定した「いのちを守る『知恵』をはぐくむために~学校における安全教育の手引~-原子力防災編-」によりますと、生徒の在校中に原子力災害が発生した場合、児童・生徒は「早め早めに帰宅又は保護者に引き渡し、自宅の所在する地域の住民として避難すること」が原則になっています。しかし、私が勤務する高校の生徒は、兵庫県まであと少しという久美浜町河梨や、近畿唯一の米軍基地を有する丹後町宇川の久僧、私が住む与謝野町よりさらに大飯原発に近づく宮津市小田など、かなり広範囲から通学してきています。通学手段として多くの生徒が利用しているのは京都丹後鉄道や丹海バスなどの公共交通機関ですが、都会と違い、1時間に1本あればありがたいという僻地ですので、通常でも朝8時50分の始業に間に合うようにと、朝6時過ぎには家を出て2時間以上かけて来ている生徒もいます。そのような状況の中で、仮に原子力災害事故が発生した場合、多くの住民が必死に放射能から遠ざかろうと避難するという混乱の中で、全生徒を速やかに保護者に引き渡すことができるとは到底考えられません。それは道路の状況が自動車が正常に動ける状況だとは思えないからです。

以前、福島から必死で避難されてきた方の話を聞かせていただく機会がありましたが、どの道路も大渋滞、ガソリンも売ってもらえない、たとえ保護者の方が学校に向かわれても、学校に到着されるのに何時間かかるかも分からないのです。また、これまで大雨警報などの発令により、授業を休止して帰宅させたことが何度かありました。しかし、保護者の勤務の関係や交通機関の関係で、夜まで学校に待たされていた生徒が何人もありました。高校生ですから、小・中学生のように保護者の迎えを待たずに自力で帰らせればよいのではと思われるかもしれませんが、公共交通機関が正常に運行しているのかどうかも定かでない中で生徒を帰宅させるのがふさわしい方策とも思えません。また、原子力災害が発生している中で無防備に外に出れば、その間にも生徒らは放射能汚染にさらされるということにもなります。さらに、京都府北部は、冬になれば年に何度も大雪に見舞われます。昨冬は雪が少なくありがたかったのですが、大雪のためにバスがなかなか学校にたどり着かず、始業を1時間遅らせたことも一度や二度ではありません。原子力災害が大雪と重なった場合は、どのようなことになるのか想像するのも恐ろしいです。

平成30年2月に策定された「京丹後市地域防災計画・原子力災害対策編」には、学校施設において、生徒等の在校時に原子力災害が発生した場合、「教職員の指示・引率のもと迅速かつ安全に生徒等を避難させるものとする」としていますが、どのようにすれば迅速かつ安全に避難させることができるのか、それが私には分かりません。

また、府教委策定の「手引」は、「児童・生徒等が帰宅又は保護者への引渡しができなかった場合は、学校の所在する地域の住民として避難し、避難先で引渡」すとしています。そして、私たち教職員の避難については「児童・生徒等を安全に保護者へ引渡しした後に避難する」と規定しています。この規定に従えば、私たち教職員は一体いつ自分の家族を守る行動に出られ、そしていつ我が身を守るために避難できるというのでしょうか。平成25年4月に策定された「京丹後市原子力災害住民避難計画」によれば学校がある京丹後市弥栄町黒部区は、「黒部保育所」を「避難集結場所」とし、その後の避難先については「黒部保育所」において「指示する」とされています。つまり、実際の避難先はその時になりその場所に行って指示されるまで「わからない」のです。そのため避難先を保護者に確実に連絡出来るのかさえ不透明です。

私の娘は現在京都府立宮津高等学校に通っています。宮津高校は高浜原発から30キロ圏内いわゆるUPZ内に位置しているということで、毎年、原子力災害発生時の対応についてどうするかという形式ばかりの文書を保護者が提出しなければなりません。「保護者が迎えに行く」とは返答していますが、妻もフルタイムで福祉関係の仕事をしている関係で、有事の際に本当に迎えに行けるのかはわからないというのが実態です。

また、弥栄分校の同僚には夫婦とも高校教員という家庭が数組あります。その中には子どもさんがまだ小学生という家庭や、保育園児という家庭もあります。保護者としての迎えと、教職員としての保護者への引渡し任務と、一体どちらを優先させるべきなのかというジレンマの中で苦しまざるを得ないのは火を見るより明らかです。もし、我が子の迎えよりも生徒を優先させた場合、我が子が通う小学校や保育園の先生が困ることになります。「手引」にはそうした場合のことは全く想定されていません。

震度7の地震が2011年の東日本、2016年の熊本の2度、そして昨2018年の北海道と、この10年足らずの間に4度も起こっています。福井県で震度7の地震が起こらないとは決して言い切れないのではないでしょうか。しかし、大飯原発は震度7を想定した設計にはなっていないと聞きます。自然災害を防ぐことはできませんが、原子力災害は人間の手で防ぐことができます。原子力災害を二度と引き起こさないためには原子力発電の運転を差し止めて頂くほかありません。京都地裁の英断を心からお願いして、私の意見陳述を終わります。

以上