◆口頭弁論(2020/9/8更新弁論)弁論要旨 原告 福島 敦子の意見陳述

2020年9月2日

 水は清き故郷(ふるさと)でした。
命がけで川へ戻ってくる鮭の躍動が、子どもたちに感動を与えてくれる故郷(ふるさと)でした。
北寄貝やいのはな、栗やまつたけ料理が季節の移り変わりを教えてくれました。
今は、除染をしても原状回復には至らず、「経済優先の復興、復興、復興」の故郷(ふるさと)になりました。
今まで癒しと恵みをもたらしてくれた私たちの故郷(ふるさと)の山や海に、何百年も消えることのない毒をまかれたのです。

 私は、福島県南相馬市より避難してきた福島敦子です。
福島第一原子力発電所の爆発当時は、川俣町そして、放射線量が最も高く示された福島市に避難しておりました。当時は、なぜ近距離の南相馬市より線量が高いのか解りませんでした。
一度戻ろうと思った南相馬市は13日には市の境に川俣町の警察署員などによりバリケードが張られ、入ることができなくなりました。
 2011年3月13日の夜、福島市飯坂町の小さな市民ホールの避難所には、800人以上の人が押し寄せました。地震のたびに携帯電話を手にする人々、消灯後の部屋がぼんやり青白く光り、夜中なのに大きな荷物をもってせわしなく足早に出入りする人々が寝ている子らの頭を踏みそうになります。放射能が多く降り注いだとされる15日には、仮設トイレまで雪が降る中、外に出て歩いていかなければなりませんでした。避難してからずっと外で遊べない子どもたち。ボランティアの人に風船をもらった娘たちは次々に飛び跳ねては上手にパスしあいます。足元には、心身ともに衰弱し体を横たえている大人が数人いました。わたしは、一番年長の娘に今すぐやめるよう強く言いました。辛抱強い娘はこどもたちにそれぞれ家族のもとへ戻るよう告げると、一人声を殺して泣きました。
 明け方のトイレには、壁まで糞便を塗りつけた手のあと。苦しそうな模様に見えました。
食べるものなどほとんど売っていないスーパーに何時間も並び買うものを選び、またレジ列に並びます。長い列の横に貧血で倒れている老女がいました。インフルエンザが蔓延した近くの避難所では、風呂に入ることができないため、温泉街までペットボトルに温泉水を汲みに行き、湯たんぽ代わりに暖を取る人がいました。
 ガソリンを入れるのに長時間並び、ガソリンを消費して帰ってきました。そのためより遠くへは避難できない人がたくさんいました。隣のスペースに、孫にかかえられて避難してきた年老いた人は、硬い床に座っていることがつらく、物資の届かない南相馬市へ帰っていきました。テレビで次々に爆発していく福島第一原子力発電所の様(さま)を避難所の人たちが囲んで観ている。毎日が重く張り詰めた空気の中、死を覚悟した人も大勢いた避難所の生活は、忘れられません。

 2011年4月22日、私は娘2人を連れ、京都府災害支援対策本部やたくさんの友人の力を借り、ごみ袋3つに衣服と貴重品をつめて、京都府へと3度目となる避難をしました。
その時に、貴重品以上に大切なものが私たちにはありました。『スクリーニング済証』というものです。
これを携帯しなければ、病院に入ることも避難所を移ることもできませんでした。私たちは、被ばくした人間として、移動を制限されていたからです。また、この証明書は、外部被ばくに限られた証明書であって、内部被ばくの状況は今もわかりませんが「黒い雨裁判」判決で認められ、広島長崎の原爆被害、チェルノブイリの症状でも明らかなように、血を受け継いでいくものであり、永遠の苦しみとなるものです。病気などほとんどしたことがない父(74歳)が、がんに冒され全身転移し入院し、亡くなりました。私の周りでも避難者含め命短くこの世を去る人がいる事は決して放射線の被ばくと無縁ではないと肌で感じじていています。
 京都へ避難してきてからは、居住地を決めたり、2日後に始業式がせまっている娘2人の学校の手続きをしたりしました。40歳の2人の子を持つ女性として、就職活動も始め自立することは大きな課題でしたが時給800円の6ヶ月期限の事務の仕事にかろうじて就くことができました。
学校では名前がふくしまということもあり、下の娘が『フクシマゲンパツ』『フクシマゲンパツ』とあだ名をつけられたこともありました。
 原発賠償京都訴訟の原告である子どもたちの心の調査をした結果、原発事故から陳述書作成までの間に80%の子どもに何らかの身体的異変があったこと、そしてそのうち「放射能の影響が考えられる症状の発症」が過半数の65%を占めていることがわかりました。
 事故から数年後の私の実家の庭の土を京都・市民放射能測定所で測定したところ、放射性セシウム濃度は、1平方mあたり93万ベクレルでした。子どものころにシャベルで穴を掘ったり、イチゴを摘んだり、母は長い年月をかけてコケを育てたりする自慢の癒しの日本庭園の土です。そのコケをはぎ、むき出しになったこの土、チェルノブイリ被災者救済法では移住必要地域にあたるレベルです。私の実家がある土地は移住すべきレベルなのです。
 私たちの暮らしは、その日その日を精一杯『生きる』ことで過ぎていきましたがもう10年。福島第一原子力発電所の原子力発電所の状況は収束せず放射能が放出し続けています。なぜ事故が起こったのかの具体的な理由も責任すら誰一人問われることなく、ただ被災した人々は日々の生活に疲弊し家族がどんどん崩壊し、避難者は避難者用住宅を追い出され避難先のコミュニティすら破壊され情報がほとんど報道されないこの世の中にあって人々は孤独に追いやられ経済的にも苦しくなりました。「原発事故はなかったこと」のように口にする人も減りました。除染をしても原状回復しない避難指示区域を次々に解除し生活インフラを整備したとしてももう元の町は戻りません。孤独死や、自殺する人を耳にすることが増えました。

 大飯原発の再稼働は、関西電力の経営努力の怠慢さ、原発マネーと呼ばれる原発稼働のための「悪質な慣習」も浮き彫りになり、地元の人々の不安と日本国民の原発に対する懸念の声、憲法を全く無視した人権侵害であり、日本最大級の公害問題であります。
 司法が、この日本国民の大きな民意を水俣裁判など多くの公害訴訟のように半世紀以上放置していることは許されません。真剣に向き合ってください。
 裁判長、こどもを守ることに必死な、懸命な母親たちをどうか救ってください。
 こどもたちに少しでも明るい未来をどうか託してあげてください。
 私たち国民一人ひとりの切実な声に、どうか耳を傾けてください。
 大飯原発の再稼働は、現在の日本では必要ないと断罪してください。
もう、私たち避難者のような体験をする人を万が一にも出してはいけないからです。
司法が健全であることを信じています。日本国民は、憲法により守られていることを信じています。