◆関西電力 闇歴史◆001◆

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◆1973年、関電の美浜原発1号機で核燃料棒の折損が発見されるも、
 4年近く事故の存在を隠ぺいし、その上、発覚後は虚偽の説明か?
 関電の原子炉運転者としての技術的、法的、常識的能力は、あまりにも欠如!
 国の定期検査関与もあまりにも杜撰で、関電と結託して事故を隠ぺい!
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 1973年3月、美浜原発1号機(現在は廃炉)において核燃料棒が折損する事故が発生した。しかしこの事故は当初外部には明らかにされず、関西電力は秘密裏に核燃料集合体を交換しただけであった。

 この事故が明らかになったのは、当時、雑誌『展望』に「原子力戦争」を連載していた田原総一朗さんに宛てて内部告発があったためという。田原さんはこれを「美浜一号炉燃料棒事故の疑惑」として明らかにした。これを受けて、衆議院議員の石野久男さん(日本社会党)が衆議院科学技術振興対策特別委員会などで追及した結果、原子力委員会はこの事故を認めた。しかし、原子力委員会が認めたのは1976年12月7日であり、事故が発生してから4年近く経った後であった。

 内部告発では、この事故は核燃料棒が溶融したものと指摘していたが、原子力委員会の発表ではこれは溶融ではなく「何らかの理由で折損」したものであり、「重大な事故ではない」としている。しかし、田原さんはこの発表に対し「原子力戦争」の追記で、「この発表の内容はもとより発表前後の経過にも、つじつまの合わない点や新たな疑惑が数多く指摘されており」と疑問を投げかけている。

(以上、おもに『原子力戦争』による。講談社文庫、ちくま文庫→こちら
『原子力戦争』


(以下、おもに『決定版 原発大論争!』による。宝島社文庫)

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◆折損事故発生から発覚まで
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 関電の美浜原発1号機では、第2回定期検査中(1973/3/15~)の1973年4月4日、燃料棒2本が合計170cmにわたって折れ落ち、破片が炉内に散らばっていたことが発見された。関電は、この事故に関して何も公表せず、隠ぺいを図った。発覚後は、折損が生じたのは燃料取扱作業中であり、運転中ではなかったとしているが、はたして本当に取扱作業中に折損したかどうか、運転中に破損したのではないか、この点については、その後、強い疑義が出されている。
 
・今中哲二、小出裕章
「美浜原子炉の燃料事故をめぐる問題 (1)」→こちら
「折損が燃料取扱中に生じたという関電の判断は、余程の技術的な無能力か意図的なものを感じさせる」
「定期点検に立会っている筈の検査官は …… 相当な怠け者か急に眼が悪くなったのであろう」
「美浜原子炉の燃料事故をめぐる問題 (2)」→こちら

 この事故の隠ぺいは4年近く続いたが、内部告発もあり、やがて次第に明らかにされることになった。1976年7月に出版された『原子力戦争』というドキュメンタリーの中では、著者の田原総一郎氏は、美浜原発1号機で重大な燃料事故が隠されていることを、「美浜1号炉燃料棒事故の疑惑」として指摘した。事故の存在が公表される前のドキュメンタリーであるにも関わらず、正確な情報源に支えられている。

 国会では1976年8月以来、事故の有無をただす追及があったが、政府は曖昧な答弁に終始し、現地調査も行わなかった。関電も事故があったことを公表しなかった。しかし、事故後4年近く経った1976年12月7日になって、関電はようやく新聞発表で事故の存在を公表した。原子力委員会も初めて事故が起きていたことを認めた。

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◆燃料棒の折損がもらたす危険
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 原子炉においては、燃料棒の健全性はきわめて重要。たとえ、わずかなピンホールでも重視され、原因究明と対策が練られてきた。破損に至っていない場合でも、燃料棒の曲がり、焼きしまりも重視されてきた。
(焼きしまりとは、一定の条件によって燃料ペレットの密度が増す現象。局所的な出力増加がおこり、冷却材喪失事故の際にはペレットの蓄積エネルギーが増加するので、ECCS=非常用炉心冷却装置の性能が低下する)
燃料棒が破損したときには、蓄積していた希ガスなどの核分裂生成物(F.P.)が一度に放出され、放射能レベルが急激に上昇する。原子炉内で発生した希ガスは、炉内にとどまらず、環境に放出される。

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◆その後の経過
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 なお、国会での追及によって事故が公表されるには4か月もかかったが、事故後の国の対応は迅速であった(→前掲「美浜原子炉の燃料事故をめぐる問題 (1)」による)。

「原子力委員会の指示により燃料棒の折損片を茨城県の日本原子力研究所に運び、試験調査を実施することになったが、その移送は事故公表の2週間後には完了していた。現状凍結を求める福井県知事の要請を無視し、発電所前での移送阻止のピケを強行突破して折損片移送が行われたのであった。」

 この問題を国会でおもに追及したのは、日立労組出身の石野久男 衆議院議員(社会党、旧茨城2区)で、1977年2月に質問主意書を出している。石野議員は社会党の反原発政策確立に最も影響力のあった人物とされ、反原発的な主張を繰り返したために、労使協調路線に転じた日立労組からは次第に疎んじられる。1980年の総選挙では、対立候補を立てられ、落選した。

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◆参考サイト
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関西電力(株)美浜原子力発電所第一号炉燃料棒折損事故に関する質問主意書→こちら
1977年2月16日
提出者 石野久男
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衆議院議員石野久男君提出関西電力(株)美浜原子力発電所第一号炉燃料棒折損事故に関する質問に対する答弁書→こちら
1977年3月4日
衆議院議員石野久男君提出関西電力(株)美浜原子力発電所第一号炉燃料棒折損事故に関する質問に対する答弁書
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関西電力(株)美浜発電所第1号機の燃料体の損傷の原因について→こちら
1977年8月
科学技術庁、通商産業省
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関西電力(株)美浜発電所第1号機の折損燃料棒片の回収状況及び同1号機運転再開に当たっての安全性について→こちら
1978年7月
科学技術庁、通商産業省
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