◆福井地裁の判決文を読んで 竹本修三

 福井地裁で争われていた大飯原発3,4号機運転差止請求の訴訟に関して、2014 年 5 月 21 日午後3 時に樋口英明裁判長から判決が言い渡された。判決文の主文には、運転コストが安く、安全である原子力発電を推進したいという被告側の主張を退けて、「大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。」という原告側の主張がはっきりと記載されている。

 判決文の地震と原発に関する個所では、「地震大国日本において、基準地震動を超える地震が大飯原発に到来しないというのは根拠のない楽観的見通しにしかすぎない上、基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、そこでの危険は、万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。」と述べられている。これは、当日、福井判決の出る一時間前の午後 2 時から京都地裁で開かれていた大飯原発差止訴訟の第四回口頭弁論で、私が「地震国ニッポンで、原発稼働は無理!」というタイトルで陳述した内容と軌を一にしているので、大変心強く感じた。

 判決文の「第4 当裁判所の判断」の最初に「人格権」が出てくる。「人格権」とは憲法 13 条、25条に定められている個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益の総体である。判決では「ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。」としている。さらに、「原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものであるが、原子力の利用は平和目的に限られているから、原子力発電所の稼働は法的には電気を生みだすための一手段たる経済活動の自由(憲法 22 条 1 項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。」という憲法解釈に基づき判決を下している。

 原発を稼働させないと化石燃料等の輸入が増えるから、国民の負担増になるという意見に対しては、「コストの問題に関して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。」と極めて人間性豊かな判決を出している。これに関して福井訴訟弁護団事務局長の笠原一浩弁護士や毎日新聞社の山田孝男特別編集委員はアダム・スミスの『国富論』と関連づけてコメントを出している。『国富論』は金もうけのためのハウツー本ではなく、貨幣獲得のために貿易黒字を増やす政策の行きすぎを批判、是正を求めた本だそうだ。

 地球温暖化と関連して、判決文では、「被告は、原子力発電所の稼働が CO2(二酸化炭素)排出削減に資するもので環境面で優れていると主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染は凄まじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。」と被告側の主張を明快に退けている。

 我々の京都訴訟でも、2014 年 2 月 19 日の第三回口頭弁論で宮本憲一・大阪市立大学名誉教授(元志賀大学学長)が「予防の原則から運転停止を」と題する陳述のなかで、福島原発災害が、日本史上公害の原点とされ最も大きな悲劇と言われてきた 19 世紀後半の足尾鉱毒事件を凌ぎ、2 市7町 3 村の 15 万人以上の住民を強制疎開させる史上最悪の公害であると指摘した。

 判決文には「幾世代にもわたる後の人々に対する我々の世代の責任という道義的にはこれ以上ない重い問題」と書かれているが、これも我々が京都地裁で一貫して主張してきた観点である。

 以上のように本判決は歴史の批判に耐えて、後世まで長く語り伝えられる名判決であったと考える。

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