◆個人の生命の本質的価値と
 原発の本質的危険性–福井判決を読む

宗川吉汪(そうかわ・よしひろ。日本科学者会議京都支部事務局長)

原発の運転差し止めを命じた画期的な判決がでた。5月21日、折しも京都地裁では大飯原発運転差止訴訟の第4回口頭弁論が開かれていた。弁論では、原告団長の竹本修三さん(京大名誉教授、地球物理学)が、日本列島は地震の巣窟だ、現在の地震学はさほど正確ではないので地震予知は難しい、だから既存の活断層だけを問題視しては危険だ、関電が基準時震動を700から856ガルに上げても安全とは言えない、1500ガルに耐えられる設備を作るのは技術的にも経費の面からも不可能だ、関電は直ちに廃炉に踏み切れ、と明快に述べた。福井判決にもほとんど同じことが書かれている。

京都訴訟原告の一人で、福島から京都に避難してきた福島敦子さんは、福島原発が爆発してからの苦難に満ちた逃避行とその後の避難生活を切々と訴え、3年経った今も事故は収束せず、事故原因も分からず、被災者は生活に疲弊し、家族の崩壊と向きあっている、と述べ、放射性セシウムが93万ベクレル/m2もある南相馬の自宅の庭の土を示して、チェルノブイリなら移住区域にあたるとして、裁判長に、子どもを守るに必死な母親たちを救ってほしい、子どもたちに明るい未来を託してほしい、司法が健全であることを信じている、国民は憲法に守られていることを信じている、と訴えた。

福井判決はこの訴えを正面から受け止める内容であった。個人の生命・身体・精神・生活に関わる利益は各人の人格に本質的なもので、人格権は憲法上の権利であり、これを越える価値は他になく、「大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかに想定し難い」として、「少なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差し止めが認められるのが当然である」と述べて、大飯原発3、4号機を運転してはならない、と命じた。

68ページにわたる判決文の中で、「本質的」という言葉が人格権に関わる文言以外に二度登場する。一つは、運転を停止しても被害の拡大が阻止しえない「原子力発電に内在する本質的な危険」を指摘した個所と(43ページ)、もう一つは、地震大国日本での原発運転が「原子力発電所が有する前記の本質的な危険性についてあまりに楽観的」と断じている個所(59ページ)である。

湯川秀樹は核兵器は絶対悪と言った。私は原発は絶対危険と主張している。福井判決も原発は本質的に危険な科学技術であると指摘した。

被告関電は、1260ガルを超える地震に大飯原発は耐えられないことを認めた上で、このような地震はやって来ないとしている。これに対して福井判決は、「大飯原発には1260ガルを超える地震は来ないとの確実な科学的根拠に基づく想定は本来的に不可能である」と反論し、ここで「本来的」という文言を使用した(45ページ)。つまり現在の地震学の科学的限界を指摘したのである。

ある著名な科学者は、科学技術はもともと価値中立で、使いようによって天使の贈り物にも、悪魔の企てにもなる、だから科学者は原発についてもそのメリット・デメリットを市民に知らせて、最終的判断は市民がすれば良い、と述べている。

しかし福井判決は、原発という科学技術は「本質的に」危険であり、科学的地震予知は「本来的に」不可能である、と明快に述べた。科学者はそのことを市民に知らせる義務があった。福島原発事故は、原発の安全神話だけでなく、科学の価値中立神話も崩壊させた。

私は科学者会議の一員として今回の福井判決から多くのことを学んだ。これをテコに京都の大飯原発差止訴訟でも勝利したい。

[週刊] 京都民報 2014年6月22日付け