◆ 原告第62準備書面
第1 司法の役割は人権救済にあること

原告第62準備書面
-いわゆる「社会通念論」批判-

2019年(平成31年)4月26日

目 次(←第62準備書面の目次に戻ります)

第1 司法の役割は人権救済にあること
1 はじめに―人権とは
2 原発事故が多大な人権侵害をもたらすこと
3 司法は人権問題の判断を回避してはならないこと
4 この間の司法判断は人権を尊重すべき司法の役割を放棄したものであること


本書面は、この間の原発差し止めをめぐる司法判断において、いわゆる社会通念や、あるいは立法の判断を過度に重視し、原発の危険性やそれと表裏の関係にある住民の人権を軽視する判断が続いていることを批判するものである。

第1 司法の役割は人権救済にあること

 1 はじめに―人権とは

原告ら訴訟代理人弁護士出口治男は、昨年6月胆管ガンの告知を受け、膵臓・胆のう・十二指腸の切除手術を受けた。手術中不整脈を繰り返し、大量の輸血が行われ、生死の境をさまよい、13時間にわたる複雑な手術を耐えて、ようやく生還できた。その後も血栓の発生、血栓が脳へと及ぶのを防ぐ為の電気ショック、ショック療法の影響によると思われる動脈の出血、体内に毒性の体液が貯まり、それを排出する5本にのぼるドレーンの付設等様々な危険な状態が続いた。そうした状態に対し、医師・看護師・看護助手・リハビリ療法士らの昼夜を問わぬ献身的な治療・看護によってようやく3ケ月後に退院でき、幸いにして今本法廷に立ち弁論を行うことができるに至った。

この度の経験で、人権というものについて考えさせられた。生きること、生きてあること。それが人権の中核にあることを実感できた。生きること、生きてあること、はしかし自分一人でできることではない。医療関係者・家族・友人知人達全ての人達が生きようともがいている自分と友愛の絆で結ばれてあることこそが人権の中核にあると実感させられた。人権は孤立してあるのではなく、自分を取り巻く多くの人達との友愛の絆の中に存在するのである。

自由で平等な人達が友愛の絆で結ばれた社会において、人権は初めて十分なものとなることを確信させられた。

 2 原発事故が多大な人権侵害をもたらすこと

既に述べたとおり、原発事故は巨大かつ取り返しのつかない人権侵害をもたらす。このことは、チェルノブイリ原発、福島第一原発事故を経験したいま、それを否定することは誰もできない。

原発事故は、友愛の絆で結ばれた社会を不可逆的に破壊し、人権の中核を根こそぎ奪い尽くす。我々は原発事故の実相をまざまざと見てしまった。我々は福島第一原発事故による被害の実態から目をそむけてはならない。生死の境をさまよった一人として、そのことはどれだけ強調しても強調しすぎることはない。

 3 司法は人権問題の判断を回避してはならないこと

原告らは第46準備書面において、合衆国最高裁長官ウォレンについて触れたが、再度触れておきたい。

アール・ウォレンは、1953年、アイゼンハワー大統領によって、カリフォルニア州知事から米国連邦最高裁長官に任命された。そして、この任にある時期、ウォレン・コートは、白人と黒人の分離教育は違憲と断じたブラウン対教育委員会事件、貧困者は、全ての重罪事件で、公費により弁護人を付されなければならないとされる契機となったギデオン事件、それを嚆矢とする一連の刑事司法改革判決等を生み出した。平等主義への強い志向、少数者保護についての積極的態度、米国社会の最も困難な問題である人種問題の解決に、行政部や立法部ではなく、司法部がまずイニシアティブをとったのであった。ウォレン長官は、退任直後、「ウォレン・コートは余りに早く進みすぎはしなかっただろうか」との問いに次のように答えた。「われわれは、われわれがいかに早く進むべきかについては何もいうことはない。われわれはわれわれのところへくるケースとともに進むのである。そしてケースが人間の自由の問題を持って、われわれのところにくるときには、われわれは弁論を聞き判決をするか、あるいはこれを放置して、社会の底にうずもれさせ将来の世代が解決するのにまかせるか、どちらかである。わが国においては、概していえば後者は余りに長くなされすぎたのである。」

このウォレン長官の見解は、原発をめぐるわが国の司法において深く心に止めるべきものと考える。原発について、わが国の司法は、実質的に司法判断を回避して放置し、社会の底にうずもれさせ将来の世代が解決するのにまかせてきた。福島第一原発は巨大かつ悲惨な事故を起こした。これは、司法が原発についての司法判断を実質的に回避して放置し、社会の底にうずもれさせ将来の世代にそのつけを回してきたからではないか。司法にも責任はないのか。これがこの訴訟に関係する全ての者に対して問いかけられていることと思われるのである。

 4 この間の司法判断は人権を尊重すべき司法の役割を放棄したものであること

原発再稼働を容認した諸判決の特徴は、原発に一定の危険性を認めながら「社会通念」という法概念として極めて曖昧な文言を使って再稼働を容認するという論理構造を有している。しかし、それはさきに述べた人権をないがしろにし、全くかえり見ようとしないものである。人権を尊重すべき司法の役割を放棄したものと言うほかはないのである。司法は本当にそれでよいのであろうか。死地を通りぬけた人間の一人として、人権を改めて直感的に体験した原告ら訴訟代理人として、本法廷関係者全てにそのことを訴えたいのである。