◆原告第65準備書面
-避難困難性の敷衍(原発事故からの避難の実態)-

原告第65準備書面
-避難困難性の敷衍(原発事故からの避難の実態)-

2019年7月26日

原告第65準備書面[114 KB]

目 次

1 原告太田歩美について
2 原告太田の避難の実情
3 大飯原発で事故が起こっても再び避難することは困難である


原告第6準備書面において、避難困難性について述べたが、本準備書面では東京電力福島第一原発事故において、茨城県水戸市から避難している原告太田歩美の避難の経験から、避難困難性について述べる。

1 原告太田歩美について

原告太田歩美は、福島第一原発事故発生時、生まれ故郷である茨城県水戸市で、当時小学1年生の娘と、父、弟と4人で暮らしていた。事故発生後、娘と二人で鹿児島県へ避難し、その後、大阪市に避難して、現在も避難生活を送っている。

原告太田は、福島第一原発事故について国と東京電力への損害賠償を求める集団訴訟を大阪地方裁判所に提訴している原告240名のうちの一人である。

2 原告太田の避難の実情

(1)東日本大震災が発生した当初、原告太田が居住していた茨城県水戸市においても水道・ガス・電気とライフラインが全部止まり、原告太田も食料やガソリンを手に入れるために必死の状況であった。かかる状況の中、原告太田は、知人からの電話で原発が危ないということを聞き、避難を決意した。

原告太田が避難する際、同居していた父からは「政府が大丈夫と言っているのだから大丈夫だ。それなのに避難するというのであれば二度と戻ってくるな」などと怒鳴られ、泣きながら口論することにもなった。それでも原告太田は、福島第一原発事故から6日後、長女と二人で鹿児島県に避難した。

原告太田の例に見られるように、原発事故に際し、避難するかどうかの判断で家族が分断され、また、分断の葛藤にさいなまれること自体、極めて大きな問題であるといわざるを得ない。

(2)鹿児島県への避難後、原告太田は、放射線被曝による健康影響などを知り、茨城県には帰らず、長期避難することを決意した。そのため、元の仕事は辞めざるを得ず、新たに仕事を探すため、大阪に避難先を変えることにした。仕事のみならず、今まで茨城県で積み上げてきた人間関係も家も捨てざるを得ず、一度リセットしての、全てが一からのスタートとなった。生活を何とか立て直すために資格を取ろうと学校へ通ったり、そのために借金をしたりしているので、生活は今でも苦しい状況にある。

原告太田は、大阪で、茨城県からの避難に対する無理解に直面した。大阪の人に「茨城県(からの避難)なんて、福島(県)にのっかってるだけやろ」と言われたこともある。そのため、自分が原発事故の影響を恐れて避難していることを、普段の生活では言わないでいる。

(3)原発事故当初、何の被害もないと言われていた茨城県北茨城市では、1592人に1人と小児甲状腺ガンの発生率が高いことが判明している。原告太田と長女もまた甲状腺検査でA2という判定が出ており、定期的に検査を受けている。

さらに、昨年(2018年)、茨城県に所在する原告太田の実家で使われている掃除機のホコリを採取して放射線量を測定したところ、事故から7年以上を経過しているにもかかわらず、セシウム137が1キログラムあたり2830ベクレルと、極めて高い数値が測定されている。

3 大飯原発で事故が起こっても再び避難することは困難である

原告太田の避難先である大阪市は、大飯原発から95kmである。茨城県にある原告太田の実家と福島第一原発との間の距離は130kmであった。現在の方がむしろ原告太田の居住地と原子力発電所との距離は近くなってしまったのである。

万が一、大飯原発で何らかの事故が発生した場合、再び避難することを余儀なくされる。しかしながら、原告太田にとって、再び新しい土地でやり直すことは困難である。健康を守るための避難であったとしても、縁もゆかりもない土地で一から始めることは、仕事、知人、金銭面など多くの生活上の困難が伴うためである。

以上