◆原告第3準備書面
 第5 放射線被ばく線量規制基準のあり方と実際

原告第3準備書面
-原子力発電の根源的危険性と日本の法制度の不備- 目次

第5 放射線被ばく線量規制基準のあり方と実際

1 規制基準の本来のあり方

 これまで、放射線被ばくの人体影響についての科学的機序について論じ、また、チェルノブイリ原子力発電所爆発事故により現実に発生した放射線被ばくによる被害について述べてきたとおり、放射線を被ばくすることは人体に極めて有害な影響がある。中でも特に、晩発性影響については様々な要因が関与している。 そのため、人体への放射線被ばくについては、放射線被ばく線量と晩発性影響を含む人体への影響を統計的に把握する疫学的調査に基づいて、厳格な規制基準が作られ、生命・身体の安全確保が図られなければならない。

2 チェルノブイリ事故による規制値の設定とその人為的緩和

 (1)一般公衆の被ばく規制値としての年間1ミリシーベルトの設定

 チェルノブイリ事故時においては、事故直後、緊急事態であるとして年間100ミリシーベルトという値を人体の被ばく線量規制値に据えて避難対策を行っていた。しかしながら、その後ゾーニングがなされ、避難地域のもっとも外側に年間1ミリシーベルト未満のゾーンを設定し、そこに被災地住民の95パーセントを居住させるようになった。そして、国際的にも年間1ミリシーベルトが一般公衆の放射線被ばく線量規制値とされるに至った。
 日本においては、放射線障害防止法および原子炉等規制法で放射線被ばくに関する管理基準が定められ、国際放射線防護委員会(ICRP)勧告に基づいて規制値を定めてきた。そのため、チェルノブイリ事故以前は、一般人に対する平常時の管理基準として、放射線障害防止法では、年換算0.5レム(現単位:年間5ミリシーベルト)と定め、原子炉等規制法では、「周辺監視区域外の許容被ばく線量は、1年間につき0.5レム(現単位:5ミリシーベルト)とする」と定められていた。
 チェルノブイリ事故後の1988(昭和63)年、ICRP勧告およびパリ会議の声明を国内法令に取り入れる形で改正が実施されると、上記2つの法律における、事業所等の境界の外又は周辺監視区域外の線量当量限度(現:線量限度)は、実効線量当量(現:実効線量)で1年間につき1ミリシーベルトとすると規定されることとなった。

 (2)「緊急被ばく状況」の設定による放射線被ばく規制値の緩和

 しかしながら、その後、人体への放射線被ばく線量規制がいわば人為的に緩和される現象が起こっており、2011(平成23)年3月11日に発生した福島第一原発事故後における日本における規制値・基準値もまた、人為的に緩和されてしまったのである。
 ICRPの2007年勧告(勧告103)は、緊急時被ばく状況において、参考レベルは年間20ミリシーベルトから100ミリシーベルトの範囲に設定されるべきと述べた。これは、それまで一般公衆の被ばく線量規制値として設定されていた年間1ミリシーベルトという規制値について、「緊急被ばく状況」という新たな概念を持ちだして、一般公衆の被ばく線量規制値を20倍から100倍にまで拡大させるものであった。
 その上、同勧告は「緊急被ばく状況から現存被ばく状況への移行は、総合的な対応に対して責任を負う当局の決定に基づくことになろう。このような移行は、緊急時被ばく状況中のどの時点でも生じる可能性があり、さまざまな地理的位置でさまざまな時期に起こり得る。この移行は、協調的かつ完全に透明な方法で取り組まれるべきであり、関与するすべての当事者に了解されるべきである。」と述べている。つまり、同勧告は、「緊急被ばく状況から現存被ばく状況への移行」は、当局が、電気事業者などを含む「すべての当事者」の了解のもと、「総合的な対応」として行うものと述べているのである。これはまさに、放射線被ばくの人体への影響から生命・身体の安全を確保するという、本来の規制基準のあり方とは全く異なる基準を示し、人体への放射線被ばくの規制を大きく緩和したものと言わなければならない。

(3)福島第一原発事故後に行われた規制の大幅な緩和

 2011(平成23)年3月11日に東京電力福島第一原子力発電所爆発事故が発生した後、日本では、文部科学省の放射線審議会基本部会を中心に、被ばく線量基準を年間20ミリシーベルトに引き上げようとする動きが繰り返し起きている。そして、日本政府は、福島第一原発事故避難住民の帰還の目安となる被ばく線量を「年間20ミリシーベルト以下」とした。これは、一般公衆の放射線被ばく線量の基準である年間1ミリシーベルトの基準を大幅に緩和したものと言わなければならない。
 この政府の設定した「年間20ミリシーベルト以下」という基準は、上述したICRP2007年勧告の言う「緊急時被ばく状況」の値と一致する。しかしながら、そもそも同勧告自体、本来の規制基準のあり方から外れて、人体への放射線被ばく線量規制を人為的に緩和したものであることに加え、住民が帰還する目安となるということは、とりもなおさず、住民がそこに定住することを意味するのであり、その目安の被ばく線量として「緊急時被ばく状況」の基準を用いることが極めて危険であることは明らかである。なお、日本政府は、一方で、福島第一原発の状況を「統制されている(アンダーコントロール)」と述べながら、住民の帰還の基準として「緊急被ばく状況」時の基準を用いようとしていることの矛盾も指摘しておく。

3 規制の大幅緩和の背景にあったもの

 すでに繰り返し述べているとおり、本来、規制値や基準値は、放射線被ばくによる人体への有害な影響を防止するため、疫学的調査に基づいて、生命・身体の安全を最優先にして定められなければならない。そうであれば、その規制値や基準値を容易に変更したり、緩和したりできるものではないはずである。しかしながら、上述のとおり、福島第一原発事故後、日本政府は、放射線被ばく線量規制を大幅に緩和してしまったのである。このことは、まさに市民の生命・身体の安全を軽視したものと言わざるを得ず、決して許されない。
 朝日新聞2013(平成25)年5月25日付報道によれば、福島第一原発事故発生後、民主党政権(当時)は、チェルノブイリ事故後に行われた「5年後5ミリシーベルト」の基準での住民の移住の例に倣おうとしていた。ところが、福島市や郡山市の一部が含まれることになれば、避難者が増えることや、避難区域の設定、自主避難の扱いに影響を及ぼすことなどを懸念し、「1ミリシーベルトと20ミリシーベルトの間に明確な線は引けない」などと理屈をつけて20ミリシーベルト案が内定したと報じられている。また「1ミリシーベルトでは県民の全面撤退になるため5ミリシーベルト案を検討していた。」という証言が会合出席者からなされたとの事実も報じられている。
 上述したとおり、規制値や基準値は、疫学的調査に基づいて、生命・身体の安全確保を最優先にして定められなければならない。しかしながら、上記報道によれば、避難者が増えればそれだけ国費がかかる、一つの県の県民が0になることは望ましくないなどといった、疫学的考察以外の政策的要素によって規制値や基準値の決定や変更が行われるという実態が明らかになった。このように、福島第一原発事故以後の日本における規制値や基準値の設定は、生命・身体の安全の確保からは本来相容れない政策的要素によって歪められてしまっている。これが現在の日本における放射線被ばく線量規制の実態なのである。