- 救援新聞 京都版No.1534 2024年11月5日
橋本宏一(日本国民救援会京都府本部 事務局長)
「ふるさとなくすのは私たちだけに」
大飯原発差止京都訴訟で証人尋問
福井県の大飯原発の稼働停止と損害賠償を求めて、京都などの住民3,477人が関西電力と国を相手に起こした訴訟の、第44回口頭弁論が、10月29日京都地裁(第6民事部合議係齋藤聡裁判長)101号法廷で開かれました。この日の法廷では約60人の傍聴者が見守る中、2人の証人と1人の原告が証言台に立ち、東京電力福島第一原発の事故による被害の実相を証言、「ふるさとをなくすのは私たちだけにしてほしい」などと、原発の稼働停止を訴えました。尋問の原告代理人弁護士と証言者、証言要旨は次の通りです。
大河原壽貴弁護士―國分(こくぶん)富夫さん
事故当時、原発から15キロ離れた南相馬市で暮らしていた。大きな揺れの地震を外で感じ家に帰ると妻は家の隅で固まっていた。その後孫が帰宅。津波が家の数10メートルのところまで押し寄せてきていた。原発の水素爆発をみて避難を考えた。近所の人たちは「15キロ離れているから大丈夫」といったが、私はとっさに危険を感じた。南相馬市小高地区に原発をつくる計画がもちあがったとき、反対同盟を結成して活動してきた。息子の妻の実家に集まろうと避難。イオンモールで必要なものを買って行こうとしたらものがほとんどない。次女は南相馬市の職員で対策の仕事があり避難できない。その後、避難は福島市へ。ホテル探すがどこも一杯、避難所の校庭に車を停めて車中泊をした。避難が早かったので渋滞に遭わなかった。子どもたちの未来を考えたら放射線被ばくが恐ろしい。次に息子の友人のいる会津若松市へ移動。雪が残っていて、大変寒い。さらに南会津へ移動。空き家で過ごした後、借り上げ住宅に移り、南相馬の借り上げ住宅に入れた。次女は体育館の避難対策で働くうちうつ病になり退職せざるを得なくなった。私は市内小高町の生まれで多くをここで暮らしている。近所の人たちと流しそうめんをしたり、花火大会を楽しんだりした。そんな環境がすべて失われた。住まなくなった家は人が入ったあと(空き巣)もあり、荒れて朽ちている。とうとう解体した。基礎を打ち、山から材木運んでつくった家だ。今は、100人で避難者訴訟の原告副団長も務める。バラバラになった仲間のコミュニティとして「相双の会」を立ち上げて活動している。同じ悩みや苦しみを語り合い、会報も発行しているし、会合ももっている。郡山の会合では泣きながら分かれた。1万人いた町に3800人程が帰っているがこの先は無理。放射線量を測定しているが、非常に高いところもあり、草木に含まれて大雨も降るので危険だ。農業はあきらめている。秋はきのこ、春は山菜をとりにいった山は荒れ放題だ。原発をつくるのに反対してきたが、反対した人のほとんどは亡くなった。当時を知る人は「おまえたちの言ってきたことは間違っていなかった」という。地域の自然を壊したのは原発。人のつくったもので壊れないものはない。大飯原発も同じ。事故起きれば取り返しのつかないことになる。
大島麻子弁護士―三瓶(さんぺい)春江さん
原発から30キロの浪江町内で暮らしていて事故にあった。戦後間もない入植。姉は看護師で津島診療所勤務、妹は川俣町へ嫁いだ。長男は自衛隊で福島にいたが除隊した。私は、会社員だったが結婚して夫の手伝いで内職をするようになった。ワラビ、ぜんまい、マツタケなどをよくとってきた。母は野菜づくりをしていて、父母と近所の人たちは毎日交流し、子どもたちの運動会もあった。原発事故でそれが全く変わってしまった。避難者は集会場へ集まり、うちからは調味料や食器を持参した。そのあと原発が水素爆発、避難は当初考えなかった。30キロ離れていたから危険ではないとのことだった。しかし、皆さんが自主避難を始めたので考えた。母方のオバが住む二本松へ避難。これには2人の兄が反対「国が見殺しにするはずがない。危険なら連絡があるはずだ」という。孫たちを守らなくてはと話し合うが変わらず、自分は避難すると決めた。結局、夫は宮城、両親は福島、長男と子どもは郡山、私は田村市と家族バラバラに避難した。避難先では避難者であることを黙っていた。わかるといじめにあうからだ。車を傷つけられたりもした。友人も離れ離れで、結婚にも影響。息子は結婚していない。自宅は帰還困難区域で、除染もされず荒れたまま。屋根が腐って天井にも穴があいている。楽しくバーベキューをしたところもその面影もない。寺には墓があり毎回お参りするが子どもは被ばくの恐れがあるので立ち入り制限がある。建物、給食施設、雑貨店など街そのものが破壊されたままだ。除染もされないまま、放置されている。元に戻して欲しい。原発事故さえなかったらこんなことにはならなかった。ふるさとをなくすのは私たちだけにして欲しい。私たちの訴訟では裁判官が現場を見に来るという。見ないと判決は書けない。それによって判断してもらいたい。人災は止めることができる。被害の訴えを聞く司法があれば希望がもてる。
福山和人弁護士―福島敦子さん(原告本人)
事故当時、南相馬市で小学生の娘2人と3人で暮らし、下水処理会社で働いていた。3月12日の原発1号機の爆発を市の防災無線で知り避難しなければと思った。学生時代チェルノブイリ原発事故の知識を得ていたので。ほぼ着の身着のまま車避難した。川俣町の警察駐車場で車中泊。ガソリンがなくなるのでエアコンもつけず、寒さに耐えた。そこから福島市役所へ移動し避難所へ。避難所ではポリ袋のご飯、衣類も足りない。寝具の代わりに新聞紙で寝たこともある。鼻血が出た。事故の影響を考えた。子どもたちを被ばくさせたくないとの思い、不安とストレスがたまり、京都の友人より府が支援をしていると連絡してくれたので京都への避難を決めた。木津川市へ移住した。子どもには甲状腺嚢胞がみられ、私も、その後脳腫瘍がみつかるなど、放射線の影響とみられる症状が出ている。父は南相馬市の病院で母にみとられ前立腺がんで亡くなった。親の死に立ち会えなかった。私は2018年、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された。東電や国の対応にストレスがたまった。分断されたままだが、放射線量の高さから帰ることは考えていない。去年の今頃測ったが毎時1ミリシーベルトを超えている。一番気にしているのは娘たちが被ばくしないようにすること。2011年4月5日避難したが、子どもたちを始業式に向かわせたかった。京都府の職員に支えられてきた。避難者は心を病んでいる人も多い。避難してきたところで再び事故に遭わないよう大飯原発の停止にも声をあげた。公正な判断を出していただきたい。
次回口頭弁論は、11月26日(火)午後2時から、石橋克彦氏の証人調べ